『居るのはつらいよ』を読んで⑴
この記事は、2019年に医学書院から出版された、東畑開人『居るのはつらいよ――ケアとセラピーについての覚書』を読んで、印象的だったところの要約・引用と、私の感想をまとめたものです。
◇あらすじ
京大出の若き心理士・ハカセは、沖縄の精神科デイケア施設に飛び込みます。
ただ、そこで与えられた最初の仕事は「ただ、居る、だけ」。
そこで「居る」を脅かす声と守ろうとする声とのあいだでせめぎ合います。
この「問いかけてくる声が、誰の声なのか」が、この本のポイントだと思います。
ぜひ考えながら読んでいってみてください。
◆「居る」の脆さ
「ただ、居る、こと」が仕事となったハカセは、あまりに平和で時計の針がなかなか進まないので、こう心の中で祈ります。
「時よ、動き出せ」
すると祈りが天に届いてしまったのか、突然火の手があがります。
そして、次々にトラブルが発生し、平和なデイケアは脆くも崩れ去っていきます。
▼「かりそめの平和」
看護師たちがデイケアの消火活動をおこなう姿を、ただ見ていたハカセ。
気づけば何事もなかったかのように、いつもの動きのない平和が戻ってきます。
「デイケアの平和(パックス・デイケアーナ)を目の前に、ハカセはこう思います。
「これは、かりそめの平和だ」
さて、この「かりそめの平和」は、デイケアに限った話ではないのではなのでしょうか?
▼「当たり前だった『いる』ことが不可能になる」
→だからこそ、ただ平和に居られる場所を
私はこの話を読んで、当たり前に「居る」ことができる平和な日常は、実はとても脆く、いとも簡単になくなってしまうものなのではないかと思いました。
だからこそ、日常の「居る」が万が一脅かされたときのために、拠り所になる居場所があるといいなと感じました。
「ただ平和に居ること」を目的としたコミュニティ。
たとえそこにあるのが「かりそめの平和」に過ぎないとしても、心の中にくすぶる火種が少しは小さくなるかもしれません。
◆「援助者療法原理」
デイケアの一見、何も起きていない空間に慣れてきたハカセの目には、小さなケアが行き交っていることが見えてきます。
メンバーさんはデイケアでただケアを受けているだけでなく、互いにケアし合うことで、そこに居られるようになっていたのです。
そのことを、ハカセは、社会心理学者のリースマンは「援助者療法原理」を引用して説明します。
この理論は、簡単に言うと「誰かを助けることが、自分の助けになるということ」です。
たとえば、電車でお年寄りに席を譲ると、良いことをした気分になって元気になれたりしませんか?
このとき、お年寄りは、席を譲られることで人を元気にしていると言えるのです。
▼「身を委ねられるようになると、スタッフになれる」
デイケアでも、この不思議なあべこべが起こっていました。
スタッフも、ケアの渦に巻き込まれていたのです。
ハカセも、メンバーさんから「大丈夫?」と声をかけられたり、ミスをしたら励まされたりしていました。
治療者として何かしなくてはと意気込んでいたけれど、本当の仕事はケアを受けとること、つまり「やってもらう」ことでした。
メンバーさんの親切を受けとり、身を委ねられるようになると、スタッフになれ、デイケアに普通に居られるようになるのです。
▼「『いる』とはお世話をしてもらうことに慣れること」
→一緒にただ居られる環境をつくっていく
私はこの話を読んで、居場所を提供する側も、参加者・利用者に身を委ね、ただ居られるようにお世話してもらうことも必要なのではないかと思いました。
提供側がただ居られる仕組みをすべて整えるのではなく、一緒に環境を整えていってもらうのです。
たとえば、話題を提供して会話を生むとか、飼っているペットや植物の画像や動画を共有して見る対象をつくるとか…
そうやって一緒にただ居られる環境をつくっていくことで、お互いにそこに居られるようになっていくのかもしれません。
◆「いる」を支える隠れ家
ハカセがいたデイケアには、半地下の卓球室があったそうです。
その部屋は、たまに卓球をするだけで、普段はガランとしていました。
電気を消すと薄暗くなるため、「なんとなく隠れていられる感じ」になるのです。
そのため、そこは、調子の悪いメンバーさんがひっそりと身を寄せる、避難場所になっていたと言います。
▼「アジール」、つまり「避難所」
ハカセもまた、例の卓球室に逃げ込むようになりました。
なぜならハカセは、幽霊になっていたからです。
転職のめどが立ち辞表を出したものの、辞めるまでの期間を3ヶ月とっていました。
まだ職場に「いる」のだけれども、3ヶ月後には「いない」から新しく入ってきたスタッフたちとも関わろうともしません。
「いる」けど「いない」、居場所のない幽霊となっていたのです。
そのような状況だったので、退職することを知っていても以前を変わらず放置してくれる、卓球室のメンバーさんたちと一緒にいると、心が安らいだそうです。
▼ブラックな「アサイラム」
この本では、基本的にデイケアの良さについて語られていました。
しかし、「いる」を支えるはずのデイケアにおいて、「いる」が軽視されてしまうブラックな面についても取り上げられています。
たとえば、高級弁当やディズニーランドなど欲望を満たすものがたくさん準備されていて、手厚く「いる」を保証してくれるけれど、実は利用者が「いる」ことで診療報酬が病院に入るため、経営の道具になっていることがあるとか…
また、生活扶助費がクリニックに送金され、職員により金銭や生活の管理が行われるため、クリニックのデイナイトケアに通わないと、食事もお金ももらえず生きていけない構造になっているところもあるとか…
つまり、「いる」が経済的収益の観点から管理されており、「いる」を強制するもの、「閉じ込め」に変わっているのだと言います。
→人を閉じ込め、強制する場所にならないように
私はこの話を読んで、自分の企画(「ただ居るだけ」は仕事になるのか)が、「アサイラム」になってしまう危険性について考えるようになりました。
利用者がいることで何かしらの報酬が発生するとなると、その人たちを囲い込もうとしてしまわないか。
そうすると、提供者(つまり、私たち研究メンバー)のなかには、そのような閉じ込め・強制をしてしまったことに良心が痛み、「居たたまれなく」なってしまうのではないか。
どのようにすれば、「アサイラム」にならず、「アジール」をつくり保つことができるのか。
それを考えるうえで重要な、「居る」を脅かす声については、次の記事で書きたいと思います(乞うご期待!笑)。
◇文献情報
東畑開人,2019[2021],『居るのはつらいよーーケアとセラピーについての覚書』医学書院.