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「鹿が谷川の流れを」(詩篇42篇[ラテン語聖書では41篇])は谷川ではない、という話

ルネサンスの合唱曲としてよく歌われるPalestrinaの詩篇42篇(ラテン語聖書では41篇)をテキスト(ただしウルガタではない)にしたSicut cervus desiderat ad fontes aquarumの「fontes」や「谷川」は、ヘブライ語からすると誤訳。

ウルガタ
In finem. Intellectus filiis Core. Quemadmodum desiderat cervus ad fontes aquarum, ita desiderat anima mea ad te, Deus.
ヘブライ語
לַמְנַצֵּחַ מַשְׂכִּיל לִבְנֵי קֹרַח.
כְּאַיָּל תַּעֲרֹג עַל אֲפִיקֵי מָיִם כֵּן נַפְשִׁי תַעֲרֹג אֵלֶיךָ אֱלֹהִים.

問題の語はヘブライ語の2行目右から4つ目のאֲפִיקֵיで、これは番組でもやっていたように、雨が降った時だけ水の流れになるワディの、しかも川床をも指す言葉。
だから、ヘブライ語では、水がない流れやその川床の上で、水を熱望してあえいでいる鹿のように、という感じ。
水がその場にあれば慕うことはない(それよりも今遠くにいるというイメージなら別だけど)。

「ワイルドライフ」でイスラエルのネゲヴ沙漠をやっていたので思い出したことで、ネゲヴとはこんな感じ。
fontesも谷川もない。
ワディの川床が見えるだけ。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Israel-2013-Ein_Avdat_02.jpg?fbclid=IwAR12e36v9sIkpkKatsBso3evcAgtLDsfWCwOYD9CW0vep5_HnP9LCVRzxB8

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詩篇126篇について論文を書いた時に調べていて、詩篇42篇にも出てくる語で、Palestrinaの曲などを歌う時にはfontesなので、きっと水がとうとうと流れる谷川がイメージされているんだろうけど、ヘブライ語聖書ではそうではない。

邦訳では相当違いがある。
「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」(聖書協会共同訳2018。新共同訳も「涸れた谷」)
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(新改訳2017、第3版以前も。そして口語〔協会〕訳も)

邦訳以外の様々な訳はBibleHubを見ると一目瞭然。
英訳は色々。
ラテン語(ただしウルガタ)もギリシア語もヘブライ語原文もある。
https://biblehub.com/psalms/42-1.htm

ラテン語のfontesがどこから来たんだろう?と思ってちょっと調べてみると、ギリシア語がπηγὰς "a fountain, spring"と訳してしまったから(2行目左から3つ目)、そちらに基づいているらしい。

Εἰς τὸ τέλος· εἰς σύνεσιν τοῖς υἱοῖς Κόρε. Ὃν τρόπον ἐπιποθεῖ ἡ ἔλαφος ἐπὶ τὰς πηγὰς τῶν ὑδάτων, οὕτως ἐπιποθεῖ ἡ ψυχή μου πρὸς σέ, ὁ θεός.

もっとも、ギリシア語七十人訳の底本が、マソラ本文のヘブライ語本文の底本と同じかどうかの問題があるから(多分違う)、「誤訳」と言い切るのは実は危険ではあるが。

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