生への執着がない人

「いつ死んでも構わない」という
一見、生への執着がない人こそ
人生の目的・目標は?と聞けば
「生きたい」という
シンプルな返答が返って来るんじゃないかと思う


いつ死んでも構わない
そのくらい後悔のない人生を送った
素晴らしかった

だからこれが続くのなら
もちろん続行したい

そういう意味での
「いつ死んでも構わない」
である


だから
「生きたい」の内訳は
「見たい、見届けたい」が多いんじゃないだろうか

それは景色だったり
味わいだったり

いずれにしろ
なんだかそこに自分は
いるような、いないような


自分が何をしたから、
何を得るから生きる、ではなく

自分がなんであろうと
どうであろうと
巻き起こって
様変わりしていく中での
移り変わる景色
それらを見てみたい、というような

実行するつもりではなく
見学したいみたいな
どこか無責任感


それは「何をしたから」にこだわっていたら
出てこない答えであるし

もうそういうものにはこだわらない人や

「生きる」というより
「生かされた」意識がある人

そういう人から出る言葉のような気がする


能動的に生きることが
何かを達成するような空気感なら

受動的に生きることは
あるがままを受け入れるような
そんな空気感



生きることに対する執着がない人ほど
生きて巻き起こることに見向きせず

もっとその先の奥深さや味わい深さを
感じ取れるのではないか

ちょっと俗人的じゃないかもね

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