インスタの悪口を書いてたら自分に刺さった

私はインスタストーリーでよく自分の思いや斜めな視点からの捻くれた気づきを載せることがある

そういうことをやり始めた理由とか込めた思いとしては「どうか私のこの気づきが、同じような誰かの役に立ちますように」であった

だけどそれは建前で

「ねぇ、私の気づきみたいなものって、みんなも抱いてる?抱いてない人いるでしょ?マジでダメだよ、そんなんじゃ?本当考えなよ?」
という、いらねぇお節介がベースだったと自覚する


そしてこれは時たま何周か巡ってくる思いなんだけど
「もうみんなには私の気づきなんて教えないんだからね!」と、すごく勝手に、そして偉そうに、いきなりそっぽを向くことがある笑

勝手に喋って
勝手に怒って
いやいや知らねぇよ、なんだけど笑

とにかく今は割とこの久しぶりの「もう言わないんだからね」モードになっている


そういう時、直前の私の心情に何があったのかと言えば、周りの人たちにがっかりする場面が多い

なんだか「インスタで繋がってる人たちのことが俗世に縛り付けられた、自分の恩恵を得たいだけよくだらない人たち」に見えるのである
(もちろん仲の良い、ごく限られた人を除く)

喧嘩してでもオープンハートでやり取りしたい不躾な私からしたらそんな人たちは腹を割って話せないので「話が通じない人には言っても無駄」モードになる


私の今のアカウントのインスタを通した付き合いは、主にサービス上の繋がりが多いので、何かみんな独自のサービスをしている人が多い

だから言い方が割と穏やかで、ストーリーも日々誰かに何かを向けたメッセージを放っている人が多い

特に自己啓発系が多いので、私も同じだけれど、自分の気づいた思いが誰かのためになるだろうと言葉を放っている人が多い

だけどそこにあるのは、
人に受けとめてもらえるように
人を傷つけないように
最新の注意を払っている表現

だけどそれらに注目しすぎて、自分の思いまでそれらに寄り添ってしまい、純粋な自分の思いや根底が濁ってしまっている人たちが多い気がする


自分の芯を貫くけれど、傷つけるような言葉にはならない

そういう人はやはり少ない

自分の芯を貫くと
基本的にはエゴの押し付けになる

誰かを思いやると
自分の思いは薄くなる

まぁそういうもんなんだろう


だけど私はインスタの何が好きって、人となりやその人らしさを見るのが好きなので、誰かに合わせた装いやきれいな人形みたいな語り口になるような表現は好きじゃないし価値がない

だったらプロや大手の業者を見るわ、と思ってまう


サービスなんだから、人に受けとめてもらわないと始まらないんだからそれは仕方ない…というのが正論なのもわかるんだろうけど、
だったらそんな半端もんのくだらねぇもんは"私は"見ないし、私もそこに対して語りかけることなんてもうしないだけだよ、となっているのが今

(どこまで偉そうなんだ)


きれいな外見には清潔感があって人は寄り付きやすいけれど、最終的に勝負するのは中身なはず

それなのに外見に気を取られて内面を磨くの忘れてて薄っぺらくなってしまいました、みたいなのが大石、本末転倒すぎて見る価値もない


と、ここまで書いて、そのまんまどでかいブーメランとして自分に刺さっていることにも気づく

結局私が日々怒ることって、同族嫌悪だとか、共感性羞恥とか、自分のような人を見てしまって居た堪れなくなったために「ほらほら!もうそういうのやめよ!がんばろ!」って声かけをしていたんだと気づく、今


言葉とは所詮小手先のもので
届くのは言葉ではなくそこに載せた思い

だからたまに言葉がいらなくなる
煩わしくなる

だけど言葉を磨かないと思いは届かない

言葉と、思いの、解離をなるべくなくしたい

「不器用でもいいからやってごらん」を、私にも、人にも、やってほしくなるんだな、私は


と、気づけた

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