もう日本人は幸せを追求しなくてもいいと思った話

※根拠はありません、抽象度高めです


どうあることが自分にとって幸せであるのか?と定義することや、自分の最上をどんどん更新していくことが求められるようなコンテンツがさまざまなところでコンテンツで見かける。だけど今を生きるおおよその日本人は、そんなことはもうやらなくてもいいんじゃないかと思えてくるほどに、今の日本は富にあふれている。物質的にも、環境的にも、とても豊か。「幸せになりたい」と願っても、多分これ以上に幸せになることはないのではないかと思う。つまり、今の日本は、幸せの天井にいるのだ。悲しいことに。

物事にはバランスというものがある。幸せを、これ以上!もっともっと!と、極めて尖っていけばいくほどに、そのバランスを取ろうと反対の部分も尖っていく。つまり貧富の差も開いていく。

だから日本人は個人の幸せについて考えたり、極めたり、欲深くなっていくのはおしまいでいい。1人が1人のことを高めるほどに、1人が究極に貧困であることに直面することになる。「そんなの高められる人は高められるんだからやってもいいじゃない、高められない能力のある人が悪いんじゃない?」というのは一見まともなようで、全体のバランスを崩しているという点において、自己中心的なように私は感じる。「幸せを感じる独り占め」のような感覚。

私は幸せというものの天井は、共有することにより高められると思っている。所詮は1人で感じる幸せとは、1人分でしかない、少ないのだ。それをみんなで分かち合う方が、もっともっと感じるものだと思っている。
だからこそ、バランスを崩してまで1人単位の幸せを飛び抜けて高めることに、私はそんなに良い効果を感じなくなってきている。

今の日本に住んでさえいたら、大体の人はどうやっても幸せだよ。
私たちは幸せがベースである状態に生まれて生きられているんだよ。

だからこれから考えていくのは、個人単位で幸せになることではなく、いかに共有できるものにしていくか、共有できる状態や環境にしていくかなのではないか。ついてこれない者や、できない者は排除していくということはどうしても無理がある。ついてこれない者や、できない者を生み出しているのは、一体誰なのかということを真剣に疑問に思ってもいいんじゃないか。

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