時間は買えるんじゃないか。
10月25日。今日は僕にとっては特別な日だ。言うまでもなく、今日という日は僕以外の人にとっては、退屈で空虚、もしくは現状への妥協だったりするわけだ。
もしも、今日という日を本当に要らないという人が一日を売却できたらどうなるだろうか。
例えば、今日の僕のような人間が1日を買える事ができたらどうだろうか。僕は迷わず買うだろう。そして一日が48時間、或いはそれ以上。そうなれば楽しい時間を通常の何倍も過ごせるわけだ。また、売った人は嫌な一日が一秒足らずで過ぎ去るのだ。そして新たな一日を迎えるのだ。
だが、我々はそれを許されないのだ。我々はどんな一日でも逃れられないのだ。
では、時間は買えないのだろうか。
買えると僕は思う。
"時間を買う"というというのは、暗に他人の1日をまた別の他人が買うということではない。
人が経験した掛け替えのない一瞬。人が誰かに聞いてもらいたい悩み。人が死にたいと思った事。
そんなことを、何らかの媒体(=時間)にして人々がその事に対して何らかの感情を抱く。
この事は正に"時間を買う"ということではないだろうか。
そして同時に、"時間を生産する"という事でもあろう。
僕たちは、たった1日の中で、大量に時間を売買しているのだ。
時間は決して平等ではない。
時間はこの世で最も格差のあるものだ。
10.25 / いっつん
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