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はじめてのーと まえがき編

10年以上前にmixiを利用し始めて、そこから4年ほどひたすらに文字を書き連ねていた。

2021年4月現在の私は32歳で、大学1年生になる直前に始めたので正確には14年前だろうか。

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もともと理屈っぽいフシがあり、それでいて気持ちをグッと堪えることが苦手な”コドモ”な私には、こうしてその場で感じた事を吐き出したり思いついた小ネタを披露できる場が与えられた事がとても嬉しくなりそれはもう毎日の様にmixiの日記更新をしていた。
マイミクがたった20名か30名という規模でしかないのにも関わらずだ。
実際に2008年あたりでは365日以上毎日欠かさず何かしらの投稿をして更新をしていた。
毎日の投稿にあたり半ば意固地になっていた事もあったが、それでも本質的に私はこうして誰の役にも立ちそうにないような、チラシの裏にでも書いてなさいというような事を考えるのが好きで、そんな生産効率の悪さなら地元で負けを見ることがなかった。
もちろん正式な大会も無ければデータがあるわけでもなく、自己診断でしかない。
このようなエビデンスの無い情報を無責任に発するあたりがやはり生産性の無さを自ら主張しているのだろうと自覚はしている。

大学進学に合わせ自分のPCを購入しインターネットの世界に浸るようになるもそれと時を同じくしてmixiに触れた為、当時の私にとってのmixiはインターネットの象徴であり、サービスが始まったばかりのニコニコ動画もネット掲示板のまとめブログも更にはアダルトサイトですら、全ては自分が楽しむ為だけにとどまらず同時にmixiにその旨を書き連ね投稿するまでがワンセットというものになっていた。
それ程までに私にとってのmixiはインターネットサービス達との邂逅と密接な関係にあり、まだSNSという言葉が社会に浸透していなかった当時でも既にSNSに肯定的な捉え方をしており、簡単に言うと「楽しんでいた」のだった。

やがてTwitterを始めるようになりその日々もだんだんと色あせていく事となる。
最初こそたった140文字での投稿など長文自己満足書き連ね野郎の自分には合わないのではないかと思ったが、上記の通りやはり本質的にSNSに肯定的な為、使って暫くすると楽しさを覚え、結局140文字ギリギリまでの文章を連投しまくるという長文自己満足野郎の自分がにっこり笑みを浮かべる結果となった。
その後Twitterはゴタゴタがあったりモヤモヤがあったりと濁しておくが、10年以上続いたアカウントを消して現在新しいアカウントを用い、あいも変わらず長文自己満足の日々を送ったり送らなかったりしている。

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さて、そんな前フリを書き連ねて何が言いたいのだと問うならば、「当時の再現をしたいなぁ」という答えが一番近いのかもしれない。

それは先程散歩していて急に思った事だ。
SNSやブログ、動画投稿サイトなど多くの投稿型の情報サービスが溢れている今日においては、より役立つ・より美しい・より楽しい、といった情報が求められており、かく言う私も生活の知恵となる情報を提供してくれるYouTubeの動画チャンネルには大変お世話になっている。

彼らは必ず視聴者に対して生産的な情報をスマートに提供し、生活に役立つ事を教えてくれる。
彼らは必ず視聴者に対してまばたきも許さない程の美しいものを提供し、息を呑むほどに見惚れさせてくれる。
彼らは必ず視聴者に対してクスリと来る笑いを提供し、心の治療をしてくれる。

そんな彼らは各々のスタイルを確立しストイックに生産をし続け、収入にさえ発展させている。
自分にそれらの能が無いことは僅かながらの経験上分かりきっており、残念ながらそういった事は他所を当たってくれなとてやんでいべらぼうめの口調で強がりながら返す他にない。

だが逆に言えば、私は誰よりも生産性に乏しくもただ書き連ねるだけの楽しさを知っている。

生産性を持つ成功者たちも大半は自分が楽しいから、自分がしたいからという理由で始めたものがバズって気づいたらそれで食べていける程の人気になり今のポジションに至りますというケースなのだろうが、その過程と密に育ってきたわけではない自分には彼らの結果しか見えず、結果を模倣したところで上手くいくわけがない。経験上そうなのだ。

──自分が楽しんでやれる事はなんだろう

その答えはこうして生産効率の乏しい、読み手のことなど一切考えず自己満足に自己満足を上乗せしたハッピーセットを書き連ねて、さも今日も一日頑張った感を出して生産した気になって調子に乗る事なのだ。
胸を張ることでは無いことは分かっているが、悲しい事に私はそれ以外にやれることがなく仕事・プライベート共に中途半端どころか人並み以下だという事を自虐ネタ的な要素無しの現実問題として受け入れている。
恐ろしく仕事が出来なくて常に周りからため息をつかれるし、じゃあ趣味を満喫しているのかというとどれも急に熱しては急に冷めて何も残らない。

そんな自分を変えようとしてもそれすらも面倒になり、思い至った結果が「まぁ、そんなもんか」というものだった。
この適当なところを自己否定の道具にするのは簡単なのだが、適当さを適当に曝け出すのもまた悪いことではない。

Twitterでも14年前のmixiでも同じだ。自分は適当な人間で、それは本質で、生産性がなくて、そんな姿を誇張したりしなかったりしながら曝け出してきたじゃないか。
義務感のみでやっていたとしたら、適当な自分の事だ、とっくの昔に飽きてやめていた。
でも暇な大学生だったとは言え毎日投稿をするほど楽しんでいたのだ。きっと自分に合っていたのだろう。

そう思い、またそんなゆるい事をやりたいなということでこの文章を今こうして書いている。

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さて、では今後どうしたいかという事なのだが、上記の通り適当にやりたいので具体的な目標だとか方針、提供する情報ジャンルなど一切無し。
そういう生産的な情報発信は他の人に任せたい。

私は、いや俺はもっと適当に話したいんだ。
適当に自分が好きなこととか嫌いなこととか最近知ったこととかお気に入りのアイテムとかを語ったりしたいんだ。
間違っても生産性の高い情報提供をして人々の暮らしを豊かにするとかいう高尚なコンセプトじゃなくて、”俺が””楽しく””書きたい”だけなのだ。

なので何を書くか、あるいは何を書かないかなどは全く決まっていない。
1万文字書くかもしれないし5文字にも満たないクソ投稿をするかもしれない。
とりあえず当時の自分のmixiページのような世界一意味のないページでありたい。
意味を持たせない事に尽力するのではなく、ただ自分がその瞬間に書きたいことを書くだけ。それが結果的に誰かの役に立とうが邪魔になろうがは二の次三の次。
読み手が読みやすい様に工夫するとかもほぼ無し。
「これ」「それ」といった指示語が多くなる癖や、一文が長くなる癖も気にしない。
起承転結や序破急といった文の展開も考えず、大まかな筋書きも用意しない。
その瞬間瞬間に思った単語と接続しを連ねていく。
なので話題が急に変わったり主語が省略されすぎたり論理展開がメチャクチャだったりもするはずだ。
読みにくくて申し訳ない、でもそれが俺の超自然で楽しく便所の落書きをするやり方なのだ。
俺が楽しければそれでいいのだ。
この文章を読んでいる貴方を楽しませる為に書くのではなく、貴方の読む時間を奪ってでも好き勝手に書く自分を楽しませる為に書くのだ。

頻度も未定、この投稿の公開後5秒後に書き始めるかもしれないし1ヶ月に1回かもしれないしこれが最初で最後かもしれない。
それにSNSなどでの自己の発信をしたり見たりすることが時にメンタルに大きな負担をかけることも実体験としてよく理解している。
だからTwitterも時々全く見ない期間を設けたりなどしている程だ。
すごく辛いのだ。
ただ今この瞬間、俺は書きたいと思ったからこうしてキーボードをカタカタ叩いているのだ。

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こんな感じでとりあえずページだけ作りました感のまま公開する。
上記の通りその瞬間の気分次第で内容も頻度も口調も何もかも適当です。

誰かの役に立とうなんて思わない。

俺は俺自身の役に立つ為に生まれてきたのだ。

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以上、まえがきでした。
次回更新は未定となります。
昨日食べた焼き肉で腸内環境が悪いあすのでした。

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