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「緊急事態宣言」が出されたら‥‥

週末の街に出ること、行列を作ること、マスクをしていないこと、等々。 今してしまうと、周りから白い目で見られることがたくさんあります。このような行為をする人を敵視して、強い口調で批判する書き込みを、多く見るようになりました。自分が感染しないため、他人を感染させないため、「私が気をつけよう」としていることを「あなたもしなさい」ということが強くなることは、感染症が広がるのとは別の次元で、暮らしにくい社会になってしまいます。

反ファシズムの名作「茶色の朝」

フランスの心理学者フランク・パブロフが書いた、「茶色の朝」という物語がある。茶色の犬や猫以外を飼ってはいけないという法律が出されることから始まり、政府の政策に批判的な新聞や書籍の発行停止‥‥、と徐々にエスカレートしていく。その過程で、主人公もその友人も政府のすることだからと言って、その決まりに従っていく。そこでは、「驚いたものだが、ただそれだけだった」「法令に従う他はない」「その時は胸が痛んだが、早く忘れてしまう」「感傷的になり過ぎたところで何か大したことが起きるわけではないし」「そんな風に心配する私がきっと間違っているのだろう」という主人公の言葉が続き、異常な社会に順応していく大衆の心理が刻々と描かれる。

もちろん、この物語の世界を現在の状況に無理やりつなげて、「緊急事態宣言」が危険だなどと言う気はまったくない。でも、いまとこれからの日本の状況を考えるよすがになるとは思う。

違和感とそれを封じ込めようとする心理

新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大の過程で、日常の些細なことから外国での出来事、政府の対応等について、「なんでだろう?」「ちょっとズレてるよね」という、さまざまな違和感を持つことが多い。日本のPCR検査実施の件数が諸外国に比べ少ないことや、マスク配布の政策、トイレットペーパーの買い占めや、スーパーの棚のカップ麺がなくなっていることなどから「ちょっと変」と感じる人は多いだろう。しかし、いずれの場合も何らかの理由がだれかから示されて、それに納得できなくても「まぁ、仕方ないか」といって過ごしてしまっている。

「茶色の朝」において、茶色以外のペットは処分するという法令が出されたときに、その内容に驚きはしたが、主人公もその友人もペットが飼えなくなるわけではないとして、法令への違和感を封じ込めている。

「違和感」は危険を知らせるアンテナなのかもしれない。

権威に与(くみ)することで、他者を排除する

テレビやSNSでは、「政府批判ばかりしていないで皆で協力しよう」とか「現在の日本の制度では、政府が強権を発動することはできない。だから、一人ひとりが政府の要請を真摯に受け止めて、行動を律するべき」という意見を多く見かける。もちろんこのような意見は、「自分がしよう」ということでは間違っていない。しかしこの意見が、「協力していない人、行動を律していない人が多くいる。困ったものだ。」という意見の前提となっていることからすると、「他人もそうすべき」という考えを伴っていると思われる。こうなると「間違っていない」とは言えない。政府の政策に反対意見を述べることが、皆で協力することの拒否にはならない。週末に外出して街を歩いていた人が、政府の要請をいい加減に受け止めている不真面目な国民なわけではない。すべての人が同じ危機に直面し、同じように危険を回避したいと願いつつ、それぞれの見識でそれぞれの意見を表明し、それぞれの行動をとっている。それは、同じ顔の者が2人いないように、同じに考え、同じ行動ができる人が自分の他にいないという真理のうえで、当然のことである。政府批判と受け止められる意見を目にして、「この人は批判ばかりしている」と決めつけ、または、街に出歩く人や行列を作る人を「感染防止の努力をしていない」と批判する者は、「なぜ自分と同じに考えないのか、同じにできないのか」と、無理なことを他人に強要しているようなものだ。私たちはついこの間まで、「多様性の尊重」を少しも疑っていなかったはずなのに、すっかり変わってしまったのだろうか。

「茶色の朝」では、政府の指示に従わない者や政府の政策に批判的な記事を書く新聞社や出版社を「やり過ぎ」と批判して、自分は法令を守っているからと安心する主人公が描かれている。

想いは一つでも、そこから生じる意見や行動は人によって異なるもの。行動や意見を一面的にとらえて、その他者を排除しようとすることは、いかなる状況においても害悪でしかない。

「緊急事態宣言」が出されると

非日常への違和感を封じ込める心理が強く働きつつ、権威主義的な人々が多くなっているときに、「緊急事態宣言」がだされるとどうなるのか。考えるだけでも恐ろしいように思う。茶色ならぬ「自粛」色が覆いつくす世の中が、見えてしまう。官民一体となって、組織も個人も「自粛」に励み、感染症予防のために一致団結突き進む国の姿だ。この宣言には限界があり、違反者を法的に罰することができないとしても、現在の日本社会の雰囲気では、違反者は法的に罰せられるのではなく、社会的に罰せられるようなことになりかねない。違和感をもつ事柄に対して違和感を表明できず、上からの要請を法として受け取り、それを犯す者(犯したとされる者)を、何の資格も権限もない個人や組織が、感染症予防という正義の名のもとに断罪する。無法下の管理社会だ。

そのようにならないためには、違和感を無理して封じ込めないこと、多様性を尊重し自由を相互承認することという、「非緊急事態」の感覚をもって「緊急事態」をやり過ごすことが大切ではないのか。

「緊急事態宣言」下でも「非緊急事態」の心を持ち続ける

「緊急事態宣言が出されても、現在とは何も変わりません」ということを、ここ2、3日でずいぶん耳にします。しかし、この宣言が出される前と後では、心理的な面で大きく異なることは確かです。法でがんじがらめに縛られるよりも、法的な強制力がないのに、心理的に集団が個人に強いる社会の方が厄介な気がします。もしそのような社会が出来上がってしまったら、「ポスト新コロナ」の社会はとても生き辛いものとなるでしょう。そうならないために、注意したいものです。

明日は何を考えようかな



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