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学びを考えた日の日記

学校は子どもの通う場所。卒業したら大人。
大人と子どもってそんなはっきり分けられるものでしょうか。
子ども扱いされるのが大嫌いで、偏屈な子どもだった私のお話です。

学びたい事、知りたい事が、「教科書」に載っていなかったり。
知りたくもない事だらけな「勉強」のために遊ぶ時間が削られたり。
何のための「勉強」なのかと不満がいっぱいなのに、「大人になったら役に立つ」と言われてただ詰め込む。

大人になってみたら、学校で習ったことが役に立ったのか全然わからない。
むしろわからないことだらけで、誰に聞いたらいいのかもよくわからないまま、目の前の仕事だけこなす毎日。

大人にだって学びの場があるといい。
大人が学ぶ場で、子どもだって大人と対等に参加できたらいい。

大人も子どもも一緒に学ぶ場所、「公共の学び場」、そんな環境を作れないかな。

そんなことをふと思い立った今日でした。


以下はそれとはまた別のお話ですが…

娘は通信制高校に通っているため、実際の授業は1年に4日間しかありません。

それでも場面かん黙の娘には、授業にひとりで参加する事のハードルが高く、親も一緒に授業に参加できる高校を選びました。

先日の事、学生として娘と肩を並べ、私も4日間の高校生活を過ごしてきました。よくわからなくて暇そうにしている娘の横で、私は多くの事を学びました。

国語を学ぶ意義とは自己理解であり、他者理解である事。

宇宙船地球号の一員であることを意識すると、ちっぽけな地球の上で繰り広げられてきた人間の歴史がまた違う角度から理解できた事。

他にもたくさん、新鮮な発見と気付きをいただけた学びの時間は、私にとって大変有意義で、贅沢な余暇を過ごさせていただいたような、そんな時間でした。

娘は娘で、よくわからないなりに面白い授業だったと感想をのべてくれました。

まだ人生経験も未熟なうちに、よく理解もできない情報を詰め込むだけ詰め込む子ども時代。
はたまた、学ぶ機会を見失い、わからないことをわからないままに過ごす大人時代。

果たして、この学びのタイミングは豊かな人生と言えるのでしょうか。

学びたいことを、学びたいときに学べる環境こそ豊かと言えるのではないでしょうか。

学校が大人に向けて開かれることは不可能な事でしょうか。子どもと一緒になって、地域の人も、誰もが学べる学校を作ることは不可能な事でしょうか。

学校という場には、地域の出会いを生み、学びの発見を生み、相互理解の輪を広めるチャンスが潜んでいるように思えてならない今日この頃…そんな感じの、日記でした。


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