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祖母が死んだ

4月下旬のことだった。映画を見終えて(それがとてもいい映画だった)余韻に浸りつつ帰宅しスマホを見ると、家族LINEで祖母の訃報が伝えられていた。老衰だという。実感が湧かず、「ろうすい」と声に出してみる。ろうすい。今まで誰かのものであった老衰という言葉が、急に身近なものになる。えらいこっちゃ。

慌てて母に電話をすると、「なんかあったん?」みたいなテンションで電話に出たので拍子抜けする。自分の母が死んだというのに、「こういうのは順番だから」と終始落ち着いた様子。「忙しいやろうけん、帰って来んでよかよ」という言葉に「いや、絶対行く」と言い張って通夜と告別式の日時を聞き出す。「コロナを持って来たら困るから帰って来るな」と言われなかったことがありがたい。

翌日、諸々の用事を済ませ、手土産を買って京都駅から新幹線に乗る。通夜には間に合わないから、博多駅で適当に時間を潰しておけとのこと。いつも行く店でラーメンと半炒飯を食べる。地元のラーメンが一番うまい。田舎に着いたらしばらく精進料理だ。

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博多駅から40分くらい電車に揺られる。桂川が母の実家の最寄駅だ。関西の人は「かつらがわ」と読むだろうが、福岡ではこれを「けいせん」と読む。改札を出ると、喪服の父が迎えに来てくれていた。ちゃんとした格好の父を見るのはいつ以来だろうか。

真っ暗な田舎道を父の車に揺られる。就職活動の話とか、父の最近の仕事の話とか、ホークスの話とか云々。なぜか祖母の話にはならない。土曜日の夜のAMラジオは、喪服の父娘の再会にふさわしい落ち着きを保っている。

駅から車で20分ほど。川の近くの斎場に着く。祖母の遺影は、私がよく知っている笑顔のかわいい祖母そのままだ。10年前の写真らしい。手を合わせて、奥の控え室へ向かう。襖を開けると、「おー、あーちゃん!大きくなったね!」と遠慮のない声たち。そこには祖母の子ども3人とその配偶者、そしてその子どもたちが勢揃いしていた。私から見ると、母、叔母とその夫、叔父とその奥さん、そしていとこ4人。喪服の9人が長机を囲んでいるところに、私と父が加わる。この輪で唯一の学生であり遅れて登場した私が近況を根掘り葉掘り聞かれ、それが落ち着いたら祖母のアルバムをめくりながら、いとこたちと若かりし親たちの写真を見ていた。

1時間ほど経った頃、叔母一家、叔父一家は車で帰宅した。斎場に泊まるのは池田家のみらしい。両親と私の3人きりになり、順々にシャワーを浴びる(斎場の控え室にシャワーがあることに感心してしまった。とても綺麗だった)。早々に父は寝てしまい、母はアルバムをめくりながらチビチビと酒を飲んでいる(母はえげつなく酒に強い。そこは私に遺伝しなかったようだ)。

「通夜ってようわからん田舎のおっちゃんたちがずっと居座って夜更けまで話し込むものなんやけど、コロナでようわからん人が来んから短く終わったね」と言う母は、短く終わったことが嬉しくない様子。母が話に出した「通夜」の記憶は、母の父、つまり私の祖父の通夜の記憶だ。祖父が亡くなったのは41年前。母が高校1年生のときだった。どうも話し足りないようなので、祖母のアルバムを見ながら母の言葉を待つ。

「サッちゃん(祖母)はね、少しずつ親離れさせてくれよんしゃったとよ。あるときから、お母さんって呼んでも振り返らんくなったと。それでサッちゃんって呼んだら振り返るっちゃん。その時に、サッちゃんはお母さんの役割を降りたんやねって思ったんよ。

それからグループホームに入って、だんだん私たちのこともわかりんしゃれんくなって。コロナでしばらく面会できんかったっちゃけど、ようやくアクリル板越しに10分間の面会ができるようになって、この前きょうだい3人で会いに行ったんよ。「サッちゃん」って手を振ったら、目の端からすーって涙をこぼしとったんよ。子どもたちやなってわかりんしゃったっちゃろうね。そのときにね、ほんの少し、ほんの5%くらいだけよ、サッちゃん死ぬかもなあって思ったんよ。そしたらその3日後に亡くなりんしゃーちゃけんね。サッちゃんは死ぬ準備をしよんしゃったっちゃが」

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翌朝。昨晩の精進料理の残りには手をつけず、コンビニで買って来たパンを食べる。明るくなってわかったのだが、その斎場は母の卒業した中学校の隣にあった。母が少女だったときを過ごした町。静かで何もない田舎町。ゆるりと時間が進み、気がついたら叔母一家が到着。慌てて喪服に着替え、控室から出て行くときに母は言った。「あーちゃん、お母さんが死ぬときもこんな感じやけん、よう見とき」

御斎、告別式、とあっという間に過ぎ、気がつけば祖母の出棺。棺をお花でいっぱいにしてくださいね、と式場の人に花をたくさん渡され、祖母の身体に花を埋めていく。何を喋ったとかは覚えていないし、特別なエピソードも別にないけれど、暖かかった人が硬くなるというのは胸がぎゅっとなる。棺から2,3歩離れたとき、唐突に足が動かなくなった。「順番通り」にいくのであれば、35年ほど先の映像が頭に浮かんだ。

棺の中にいるのが母に置き替わり、祖母の頬を撫でる母が私に置き換わる。

「こういうのは順番だから」

私は真っ黒な服で、母の冷たくなった頬を両手で包み込む。

「忙しいやろうけん、帰ってこんでよかよ」

目をぎゅっと閉じて、開く。ありがとう、と心の中で呟く。

「サッちゃんはお母さんの役割を降りたんやねって思ったんよ」

こみ上げそうなものをハンカチで抑えて寸止めする。

「ほんの少し、ほんの5%くらいだけよ、サッちゃん死ぬかもなあって思ったんよ」

棺の蓋が閉まり、然るべき場所に収納される。母の肉体が、これから燃える。

「あーちゃん、お母さんが死ぬときもこんな感じやけん、よう見とき」

棺が目の前からなくなり、喪服で立ちすくむ私の周りには一体誰がいるのだろうか。夫は?子どもは?その場に父は、叔母は、叔父は、いるのだろうか。

***

「あーちゃんが来てくれてよかったよ」。斎場から出て車に乗り込むまでの間に、母はそう言ってくれた。叔母・叔父の子どもたちは帰省しており、自分のところだけ子どもが帰ってこなかったら面目が立たないから、子ども2人のうちせめて1人だけでも帰って来て面目が立ったからよかったよ、という意味だと最初は解釈していたが、全く違った。いくら心の準備をしていたって、親の死の重みは減るものではない。たいていのことでは動じない母だが、さすがに祖母の死は精神的に応えたようだった。晩酌の酒の減りは悪く、ニュースに対するツッコミもほとんどない。とても疲れている。

それを思うと、祖母の訃報後に電話した時の素っ気ない話振りは、私に心配をかけないための気遣いだったようだ。自分の親が死んでも娘への気遣いを忘れないところは感服するばかりで、まだしばらく母には追いつけそうもない。

親戚の間では「賢いツッコミ役の末っ子」である母が、寂しさや弱音を吐露できる人間として私が隣に居たこと。それが「来てくれてよかった」理由なのだとしたら、もしかしたら私は21年間で一番親孝行なことをしたのかもしれないなと思った。


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