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見る/見られるの先に


はじめに


 2019年11月、六本木の国立新美術館で行われた「躍動する現代作家展」で高見の作品を見た私は、本当にこれは高見の作品かと疑った。私は高見と高校からの付き合いだが、私がよく知っている彼女の作品と言えば、花や学校の風景を題材にしたものであった。それらはおしなべて機械的かつ平面的で、どこか明るくてどこか暗い印象を持った作品であった。
 しかし「躍動する現代作家展」にある作品は違った。パリパリとした加工が施された写真が切りはりされ、一畳ほどの大きさとなって横たえてある様は、写真というにはグロテスクな怖さを直感させるものだった。黒味がかった写真を一枚一枚見ていくと、昔の家族写真であることがわかった。3、4歳くらいの女の子とカメラの方を向くお父さんや、七五三の格好をしてお母さんと顔をくっつけあう女の子の姿、少女がこちらを見てにっこり笑うピンショット。タイトルは「OVERWRITE」―上書き保存だ。
 これらの素材は高見家の家族写真であろうということは想像がついた。そして彼女が写真を通して現在を編集するという行為から、写真を通して過去を編集するという行為に段階を変えたことに、なぜか私はしっくりきたのであった。

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クールな写真とホットな写真


 写真にはたくさんの情報が詰まっている。写っている人物や景色、場所、時間、被写体が人物ならばその人物の感情、そして撮影者の感情など、物質的な情報から心情的な情報まで様々だ。
 私が思うに、高見は写真に写す情報をコントロールするのがうまい人物だ。写す必要のあるものだけを写し、必要のないものはフレームの外に排除、編集する。だから機械的な緻密さがあり、平面的な印象をもたらしているのだと思う。「今この瞬間を記録する」というよりは「写真という技術を使って現実を加工する」というような、誤解を恐れずに言えば感情の少ない“クールな写真”だ。情報量を少なくすることで意図を明確にし、少ない感情を際立たせるような作品を作ってきた。
 しかし、今回彼女が取り扱っている家族写真は正反対だ。背景にいろんなものが写り込んでいて情報量が多く、全ての写真に撮影者の「この瞬間を写真として残しておきたい」という意図が汲み取れる“ホットな写真”だ。

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