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日付のあるnote(2021.11.24-11.28)

2021年11月24日(水) 秋のおでかけ①仙台

 5時に目が覚めた。予定より20分早く起きたことに、今日のことを心待ちにしていたと実感する。今日から5日間で、4人の友達に会いに行く。
 まずは仙台。中学時代は伊坂幸太郎を読み耽っていたので彼の拠点である仙台に憧れており、いつか住みたいと思っている街の1つである。仙台空港に着いて電車で30分ほど揺られると、友人との待ち合わせ場所、仙台駅へ到着。
 今日会う友人との関係性を説明するときの最もシンプルな言葉は、「東京在住時代のシェアハウスのルームメイト」。物語的に言えば「刺激を与え合う友人」、情熱的に言えば「同志」であり、今後の関係で言えば「沖縄で一緒に暮らす同居人」である。
 彼女とはこれまで、北海道や沖縄など色んなところへ一緒に行っている。彼女が尼崎に来てくれたこともあった。誘ったら断られたことが一度もなく、そのフットワークの軽さにはいつも笑ってしまう。
 そんな彼女が住む仙台に、彼女が住んでいるうちに行きたかった。彼女がこの地で何を考え、どんな生活をしているのかが気になっていた。
 前回会ったのは今年の9月、沖縄で10日間ほど一緒に過ごしたときだった。そのときの「暮らし」に対するこだわりは、彼女の実際の暮らしを覗いてみたいと思わせるものがあった。


 昼頃に仙台駅に着いて合流。私は鮭はらこ飯を、彼女は牛タン定食を食べながら近況を報告した。先日の衆議院選挙の話から今年のM-1の話、彼女の最近の生活の話など、話は尽きることがなかった。私たちはその後水族館へ行き、閉館ギリギリまで楽しんだ後で彼女の家へ行った。
 彼女の家は、仙台駅から彼女が(一応)所属している大学の中間地点にあった。白と赤で統一された室内は、なんだか意外で、同時にしっくり来た。
 ものは多いが整頓されていて、「ものの住所が決まっている」とはこの状態なんだなと思うほどそれぞれが「あるべき場所に」存在していた。その整頓具合と垣間見える「こだわり」(例えばキッチンの収納や食器の種類、取り揃えているお茶の種類や使っている洗剤など)は、彼女がたくさんの時間を費やし、丹精込めてこの部屋を作り上げたのだろう、と想像させるには十分だった。
 こんなに生活感がある部屋に住みながら、彼女は今ワーキングホリデーで高知に住んでいる真っ最中。1週間だけ中抜けして仙台に戻ってきている。高知ではみかんの収穫をしているそうで、その生活がすごく楽しいらしい。彼女の生き生きとした笑顔を見ると、一緒に沖縄で楽しい生活を作るぞ、と改めて決意する。

2021年11月25日(木) 秋のおでかけ②気仙沼1日目

 今日は「同志」とともに気仙沼へ。仙台駅から高速バスで2時間ほど北へ。永遠に続くようにも思える田んぼの真ん中を走り続けると海が見えてきた。空き地の間にぽつん、ぽつんと真新しい建物が立っていて、その不自然さが、この街を不自然にさせてしまったもののことを想起させる。ここが気仙沼。
 今日会う彼も、東京時代に同じシェアハウスで暮らした友人である。同志のことをその行動力で笑うのであれば、私は彼のことを「主人公すぎるやろ!」と笑うだろう。そのくらい彼の人生を語れば、主人公的エピソードが多く存在する(例えば世界一周への想いを語るコンテストで優勝して世界一周の券をゲットしたとか)。人懐っこい笑顔と主人公特有のコミュニケーション能力で、自分の人生に人をどんどん巻き込んでいく人間なのだと思う。
 そんな彼が気仙沼のゲストハウスで働いて1年半ほどが経つだろうか。その経緯は詳しく知らないが、世界一周を志してコロナで夢が潰えた彼が、1つの拠点に根ざしてどんな暮らしをしているのかが気になった。
 彼に教えてもらった純喫茶(とてもクセが強いおじいちゃんがしているゲキ渋純喫茶だった)で遅めのランチを食べ、漁港の方へ歩く。至るところで行われている道路工事が、この街はまだまだやるぞ、という気概のように感じられる。
 漁港をふらふらして待っていると、主人公が車で迎えに来てくれた。相変わらずの陽気さに、1年ぶりの再会への緊張が一瞬で解ける。
 3人で車に乗ってゲストハウスへ向かう。ここは気仙沼のワーキングホリデーの拠点となっており、ワーホリしに来た人やゲストハウスのお客さんとの交流を楽しんだ。同志は明日の飛行機で高知へ帰るので、19時ごろにお別れ。私たちはすでに12月に高知で会うことを決めているから、お別れというほどもないのだけれどね。
 夕食時に明日は伝承館へ行くと言うと、今日訪れたという子が「ゴルフをやりたくなるよ」と教えてくれた。「うっそ〜、そんなわけないやん!震災遺構よ?なんでゴルフやねん!」としっかり振ったけど、どういうことなのだろう。楽しみだ。 
 明日はイベントがあって夜もごちそうが振舞われるそうだから、今日は日記を書いて早めに寝ることにする。

2021年11月26日(金)  秋のおでかけ③気仙沼2日目

 気仙沼の11月はすっかり冬だ。海の方へ歩く。今日の目的地はただ1つ、伝承館だ。
 3.11が起きた2011年、私は小学校5年生だった。帰宅したらテレビは津波の映像ばかりで、私はそれを他人事のように思っていた。21歳の私には取り戻せないその鈍感さは、ある意味では幸いだったのかもしれない。想像力の欠如は、精神的な負荷を幾分も減らしただろう。茨城県の海岸沿いの町に4月から就職予定だった兄の入社式がずれこみ、子ども部屋を引き継げないことが当時の最大の悩みであった。あとは九州新幹線の開通イベントが小規模になったこととか。震災の私への影響はそれくらいなのだけれども、思想を大きく影響された人は五万といて、(おそらくどの学問もそうだと思うが、とりわけ)社会学を勉強する私にとって、3.11の思想は通らなくてはならない道であった。東京在住時代は東北が近く、石巻へ行ったり郡山に1ヶ月住んだりもしていたけれど、京都へ戻ってからは感染症の影響もあってなかなか東北へ行きにくかった。節目の年である今年は震災の日に東北にいたかったけれど、残念ながらタイミングが合わず、そういった流れにはならなかった。ようやく気仙沼へ行くタイミングをつかみ、私は東北3県にある伝承館の1つ、宮城県気仙沼市の伝承館をようやく訪れた。
 海からすぐそばの伝承館は、津波に襲われた気仙沼向洋高校を保存してそのまま展示している。4階にある金属製のレターボックスの下から数十センチのところまでついていた錆が、津波の水位を示していた。背筋がぞっとした。言葉で「校舎の4階まで津波が来た」と聞くのと、実際に校舎の4階に立って、海、空、風を感じながら水位を知るのとでは理解が全く異なる。
 印象的だったのは、記録に残っているだけでも、過去に津波に襲われたことが何度もある町だということだ。そんな気仙沼には過去に「ここは津波が来なかった」と言い伝えられている場所があり、そこへ避難した60人が津波で亡くなったらしい。涙が止まらなくなった。長年信じてきたものを、死を伴って壊されてしまうことの苦しさは計り知れない。
 伝承館の南側には新しいパターゴルフ場があった。ざっと数えて40人近くいたのではないだろうか。職員の方もこの利用者数の多さは「想定外」だったらしい。震災を象徴する廃墟の隣でパターゴルフというコントラストに最初は眩暈がしたが、真新しい芝と生き生きしたシニア、そして震災遺構の並びは、えも言われぬ美しさがあった。生と死は常に隣り合わせであること、そして気仙沼の人たちが「海と」生きてきたことが、展示よりもありありとわかった。「ゴルフやりたいー!」と1人で伏線を回収して、伝承館を後にした。


 今日はいい風呂の日ということで、銭湯でイベントがあるらしい。着いた時には暗くなっていたが、小さなマルシェをやっていた。入浴して43度のお湯で温まった後、岩手の地サイダーを飲みながら色んな人と話す時間は、入浴という日常を彩ってくれる素敵な時間だった。このイベントは移住者がやっているそうで、移住者同士だけでなく以前から住んでいた住民たちとの交流もだいぶ進んでいるらしい。
 ゲストハウスに戻ったら宴会がスタート。机には海鮮と手作りの唐揚げ、そして大量の日本酒が並んでいる。こんな飲み会は久しぶりだし、レモンサワーやほろよいではなく日本酒を飲むだなんて、なかなか酒呑みが多いようだ。お酒はもちろん美味しかったが、一番面食らったのは生牡蠣だ。あんなにとぅるんとしている牡蠣は初めてだった。福岡の牡蠣も美味しいが、今まで食べた牡蠣とは違う食べ物のように感じられほどにクリーミーであった。
 ワーホリで来ている子やゲストハウスの子と深いところまで話し、気がついたら1:30くらいになっていた。未来の話や過去の話、恋愛観などが飛び交う真ん中で麻雀している人たちがいて、自由で楽しい空間だった。
 印象的だったのが、主人公が気仙沼を選んだ理由。私は「選択して」彼がここへ来たのだと思っていたのだけれど、彼からすると「ここしか居場所がなかった」という。主人公には主人公の悩みがあるらしい。
 私は私で、本当に沖縄がいいのかという問いを持ち歩いていたので、すごく腑に落ちた。側から見ると彼に東京という選択肢があったのに彼がそうだと思わなかったように、私からしても京都は選択肢にあるようでないのだ。沖縄へ行く覚悟が決まった。

2021年11月27日(土) 秋のおでかけ④東京1日目

 朝。高速バスで仙台へ向かい、新幹線で大宮まで出て、埼京線で新宿へ。今日は事前に予定を入れていない日だったのだけれど、たまたま尼崎で出会った人たちが東京のイベントに出店していたので下北沢へ向かう。
 「ゲリラ古書店フジモテキイグチ」という3人(フジモトさん、テキちゃんさん、イグチさん)の古本屋さんとは、尼崎で2ヶ月に一度行われている一箱古本市で、出店者同士として出会った。手に取った本について話しながら本を通してコミュニケーションを取る接客スタイルが、本との出会いをとても楽しくしてくれる。もっとも、彼ら、彼女らは思い入れのある本しか売らないため、語り口は軽妙でつい買ってしまう。
 てきちゃんさんは「てきちゃん漂流日記」という双極性障害になった去年12月から半年弱の日記をまとめた本を出している。この赤裸々で巧みな文章に惹かれ、すっかりてきちゃんさんのファンになってしまった。てきちゃんさんは私が漂流日記を買ったことを覚えていてくれて、最近できたという付録をくれた。沖縄へ移住するという話をすると、沖縄で出店したいと言ってくれた。これはこれは、沖縄で一箱古本市をしなくてはならない。沖縄でやりたいことが1つ増えた。


 てきちゃんさん選書の漫画を買って、下北をふらふらと歩く。下北へ来ると必ず寄る文芸誌が豊富な古本屋で本を調達。そして7月に見つけたおいしい洋食屋でハヤシライスをいただく。小田急で新宿に戻って、ホテルで一休みしてから武蔵野館へ向かう。『佐々木、インマイマイン』という映画を観るためだ。
 ちょうど1年前の封切りのときに見逃して、今年4月に神戸で上映されると思ったら緊急事態宣言で閉館になって見れず終い。ずっと観るチャンスを伺っていた映画だ。
 藤原季節さんが演じる売れない役者・悠二が、元カノや売れた後輩、そして高校時代の破天荒男・佐々木の思い出とともに生きていくという、青春好きからするとたまらんストーリー。悠二が劇中で演じる役のセリフが、現実にどんどんシンクロしていくラストシーンには号泣。レイヤーが重なる瞬間って心が大きく動いてしまう。悠二が「俺に役者できるかな」と嘆いたときに佐々木がさらっと言っていた、「馬鹿かお前。できるからやるんじゃねえ、できねえからやるんだよ」という言葉が心に残っている。私にも佐々木、インマイマインだ。

2021年11月28日(日) 秋のおでかけ⑤東京2日目

 新宿駅に9:30に待ち合わせ。今日会う1人目の友人は、京都でグループ展に参加したときに出会った子だ。「ファストフード」というテーマで展示を行った中、都市系の展示を行った人が私ともう1人いて、それが彼だった。彼は(私と全く逆で)東京の大学に在学しつつ、大阪の大学との国内交換留学制度を使って今年の春学期に千里の団地に住んでいた団地マニアだ。8月に私が尼崎を、彼が千里を案内したきりで、2回目の町歩きだった。まず新宿の(ずっと気になっていた)純喫茶でモーニングをし、近況報告。
 彼は福岡がとても好きで、私のローカルトークにも付き合ってくれる。そんな彼は大学卒業後、九州大学の大学院に進学するそうで、彼が福岡のどこに住むのかをとても楽しみにしている。私の沖縄暮らしにも興味を示してくれて、遊びに来てくれると約束してくれた。楽しい約束が増えていく。
 1時間くらい話し、中央線で中野へ。中野ブロードウェイへ連れて行ってもらった。「サブカル関連のマニアックなものがたくさんやりとりされる場所」程度の認識だった私は、ブロード「ウェイ」だからアーケード街だと思い込んでいて、建物であることにすっかり驚いてしまった。確かに建物内は「エレベーター通り」「ブロードウェイ通り」と南北に走る2本の通りを意識した造り。一番驚いたのは、上階に人が住んでいるということ。そもそも商業住宅複合ビルとして建てられ、地下1階から4階までは商店が並んでいる(彼はそのあたりの知識も事欠かない)。今もまんだらけの間に歯科や食堂、貴金属店などが並び、地下は西友やDAISOもある。なんてカオスな。
 裏側の居酒屋街を通って駅に戻り、続いて吉祥寺へ。中野駅前のアーケードは「サンモール」だったけれど、吉祥寺駅前アーケードは「サンロード」。モールとロードの違いも面白いが、彼は「サン」とつく商店街の多さの話をしてくれた。関東大震災後の区画整理で新しく「朝日町/旭町」と名付けられたところが多く、そこから取られているらしい。さすが日出づる国。
 吉祥寺は古本屋のイメージがなかったけれど、3軒の古本屋をはしごして(しっかり買いものもして)大満足。それぞれ随分ジャンルの違った本屋で、都市系の雑誌を彼に説明してもらいながら立ち読みするのがとても楽しかった。ぶらぶらしていたらもう14時近くで、またまた純喫茶で遅めのランチ。宮沢賢治の『春と修羅』の登場人物から名前を取った純喫茶でパスタをいただく。私は食べるのが遅いのだが、それに気付いてか食べるスピードも合わせてくれていて、この人はなんてできる人なんだ……と心の底で思いながら心地よくいただいた。
 彼の研究の話や細野晴臣の話、福岡の遺跡の話、「観光」と「旅」の話、2000年代の話、方言の話など話題は多岐に渡り、なんだかんだで2時間近く話していた。
 私は「教養」を、違うレイヤー・ジャンルの話を時代性や構造に着目しながら結びつけられるということだと捉えている。多方面に詳しく、それを知識だけでなく実感として身につけている人。私が出会った同世代の中でもっとも教養を身につけている人が彼だ。彼の話は上質なスープのように長時間かけて醸成され、たくさんの見えない具が出汁となって効いている。彼の話は私の思考を耕し、刺激を与えてくれる。使う言語が近すぎず、遠すぎないこともポイントだ。私は彼のテンポに合わせて頭を回し、すっと言葉を紡いでいく。この会話の心地よさといったら、何物にもかえがたい。バンドのセッションってこんな感じなのだろうと思う。
 名残惜しいが喫茶店を出て、中目黒へと向かう。カセットテープの専門店があるらしい。彼に修理を依頼していたカセットテープレコーダーが返ってきたので、それで聴くカセットが欲しくて1つジャケ買いした(カセットの単位がわからない。枚というには厚くて、本というには微妙な形だ)。その店はデザインで厳格なルールを作っているようなお店で、場に緊張感をもたらしていたけれど、それが中目黒っぽくて嫌ではなかった。
 私は次に両国で待ち合わせだったのだけれど、どうも間に合わない様子。中目黒から両国への行き方は何通りかあるそうで、うまく乗り換えて5分縮めたのを彼は喜んでいた。日常の小さなことを喜べることと、その東京特有の遊びが微笑ましかった。彼とは秋葉原で別れた。次会うのは一体どこなのだろう。楽しみだ。


 さて、両国で待ち合わせたのは、以前私が住んでいたシェアハウスの住人だ。私とほとんど入れ違いで入居したため、お互いのことを深く知り合っているわけでも、遊びに行ったこともない。私が家に遊びに行ったときにタイミングが合えばご飯を一緒に食べたり、サカナクションの配信ライブを一緒に観るくらいの、側から見れば十分すぎる仲で、シェアハウスの同居人という点で見れば取りとめのない仲であった。
 彼女は好きなものには好きと、嫌いなものにははっきりと嫌悪を示す純粋さを持ち合わせていた。本人がどう思っているかは知らないが、少なくとも私にはそのように見えた。その若い反射神経を(といっても彼女が一つ上なのだが)苦手に思うタイミングもないことはなかったが、今はその率直さを確かに私は求めていた。別の視点から言えば、彼女は京都とは全く違う気候を持った人なのであった。
 彼女が指定したお店は、飲食店でありゲストハウスでありシェアハウスでありギャラリーという、フロアごとに分けられつつもミックスされた空間だった。彼女はそこのシェアハウスに住んでいたこともあり、随分とアットホームな雰囲気。テラス席に置かれたこたつに入ってぬくぬくと近況報告。彼女は仕事をやめてフリーターになっていた。フリーターの先輩なわけだ。彼女は楽しそうに暮らしていて、彼女の目は生き生きと輝いていた。気取らず等身大の彼女に、私は掬われていた。
 上階にあるギャラリーの絵がかわいくて購入。作家さんも在廊していて(めちゃくちゃかわいかった)、ひとしきり話した。絵の感想を伝えたとき、彼女の目が赤くなっていて驚いた。「そんな風に思って欲しくて作ったから嬉しいです」という彼女の目が、とても印象に残っている。自分の心から湧き上がったものが人の心に触れるときの感動。これはクリエイターの特権だと思っている。私も自作の短歌が人に届いたときは、心が震え上がる。クリエイターと受け手を繋ぐ場所の意味は大きい。


 のんびりしていたら、電車だと夜行バスに間に合わないことが発覚。タクシーに乗って新宿へ急ぐ。タクシーに乗ることもそうそうないので、ずっと気になっていたことを質問してみる。「東京の運転に慣れるのってどれくらいかかりました?」。人情派というよりは紳士的な(いかにも都会的な)運転手さんは苦笑いして、「23区は広いので、私は港区と中央区くらいしかわかりませんね」。それは衝撃的だったけれど、タクシー利用者はその辺りに多そうだから確かにそうなるか。ところでバスタ新宿は渋谷区ですが、大丈夫ですか……?
 運転手さんにコインロッカーの位置とバスの時間を伝えると、「それは間に合いませんよ」と一蹴。まじかよ。コインロッカーの近くまで送ってもらい、新宿東口の広場を全速力で走る私。その映像は、(その瞬間には重ねなかったけれど、)高校時代にずっと一緒にいた友達と笑いながら天神の交差点を走ったあの映像と重なった。あのときなんで走っていたかは覚えていないし、別に何か用事があったわけでもなかったと思う。点滅信号だったとかかな。でもそのときの若さ、青さが想起された。私、都会の真ん中で全力疾走するだなんて、まだまだやれんじゃん。そんなことを考える余裕があったのもバスに乗ってからのこと。なんとか出発3分前に乗り込めた。
 こんなバタバタ劇でこの5日間のおでかけは終了。出会った皆さん、そして全ての大地と海とその恵みに感謝を。ありがとうございました。

余談

 今回の旅の裏テーマは2つ。関西弁デトックスと筒井康隆の『旅のラゴス』を読むことだ。
 私は芸人のラジオをよく聴くが、なぜか関東芸人の番組ばかり。先日霜降り明星の番組を聴いてみたけれど、面白いのにものすごく疲れた。そのときに、パーソナリティの言語表現しか受け取れないラジオだと、関西弁を受容することが結構大変だということに気がついた(ちなみに岡山弁の中野と宮崎弁の岩倉からなる蛙亭のラジオは負荷なく聴けるので、「方言」が問題ではなさそう)。
 自然体のときは博多弁で思考をし、文章の読み書きのときには標準語で思考する私にとって、関西弁はノイズが多すぎる。博多弁と標準語は語尾の違い程度のものであるし、本は基本的に標準語で書かれているので勉強のときにはそちらの方が思考がスムーズだ。アルバイト先の塾ではたまに関西弁を使うけれど(以前録音して聴いたら随分と下手だった)、それは生徒と言葉を合わせるために必要な手段として取っているだけだ。顔を合わせて話していれば、関西弁のノイズをそんなに感じないし、適応に十分な時間を関西で生活してきた。
 だがやはり、関西弁のない世界はすごく静かだった。それは関西弁を貶めるわけではなく、私の体感としてそうなだけであって、関西弁の賑やかさを好むタイミングだってある。でも定期的に関西弁をデトックスしておかないと、思考が狂いそうで怖くなるタイミングもあるのだ。
 一方で、駅で聴こえる「〜じゃね?」という言葉の汚さには驚いた。関西だと「〜ちゃう?」、博多だと「〜っちゃない?」と表現されるその言葉は、濁音が入ると急に汚く思えた。それも「〜じゃない?」ならまだしも、「〜じゃね?」はちょっと……東京で暮らしていたときにはここまで感じなかったけれど、この言葉の音の品のなさには呆れてしまった(誰目線かは謎だけど)。


 『旅のラゴス』は友人におすすめされて読んだ本で、恥ずかしながら筒井康隆は初読だった。生涯をかけて旅したラゴスを描いたSF小説なのだが、何のために生きるのか、なぜ旅をするのかを深く考えさせられる内容だった。この日記の締めに、本文から好きな部分を引用する。

 焦燥とは無縁だった。かくも厖大な歴史の時間に比べればおれの一生など焦ろうが怠けようがどうせ微微たるものに過ぎないことが、おれにはわかってきたからである。人間はただその一生のうち、自分に最も適していて最もやりたいと思うことに可能な限りの時間を充てさえすればそれでいい筈だ。(筒井康隆『旅のラゴス』新潮文庫、p133)





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