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24歳

大阪に暮らす

無事に歳を重ねて24歳になりました。歳を「重ねる」って素敵な日本語ですよね。21歳くらいまでは「重ねる」って感じがしなかったけれど、最近は「重ねているな〜」と思います。数年前に出会った人と全く違う場所で再会したり、気持ちがしんどくなる前に対処できるようになったり。きっと30を超えると、より「重ねる」という言葉の意味を実感できるのではないかなあと思ったりもします。

それはさておき。

大阪に引っ越して1年が経ちました。
1日1日はあっという間だけれども、1年と思うと長く感じます。

この1年、大阪という街に馴染もう馴染もうとしていました。
詳細は後述しますが、お笑いにまつわることを仕事にする中で、私は「東京」や地元の「福岡」ではなく「大阪」を選びました。地元が関西の人とは訳がちがいます。だからこの街に早く馴染まなくては、と思っていました。

大阪に住んで半年が経った頃、東京のエスカレーターで無意識に右側に乗っている自分に愕然としました。それがあまりに無意識だったのです。色んな街で暮らしたことがありますが、半年でその都市の文化を身体化したのは初めてでした。それくらい大阪に馴染もうとしていたのだと思います。

構成作家0年目

昨年4月から吉本興業の裏方養成の学校に通っていました。NSCの裏方版で、この3月に卒業します。

裏方の中でも、私は構成作家という仕事を目指しています。ざっくり言うとお笑いの台本を書く仕事です。それがテレビかラジオか、劇場ライブかyoutubeか媒体の違いはありますが、概ね企画を考えて文字にする仕事です。

なぜ作家志望なの?と聞かれると、「(かくかくしかじかあって)ロングコートダディさんのコントが好きで……」と答えるのですが、その「かくかくしかじか」をちゃんと書きます。

「人身事故」の捉え方

「人身事故」という言葉が私の身近になったのは、関西に出てきてからのことです。電車を一切使わない生活をしていた高校生までは、テレビやラジオで聞く言葉でした。

しかし関西に出てきて、とりわけ京阪神を往復することが増えてからは、「人身事故」という言葉をよく聞くようになりました。

私は最初、「人身事故」という言葉を聞くたびに悲しくなっていました。どういう事故かはわからないけれども、誰かの身に何かがあったことは確かです。意図のある事故なのか、不慮の事故なのか。人身事故の影響で電車が止まっていたり遅延している最中は、検索してもその事故がどういう事故なのかはわからないもので、なんとももどかしい思いをしました。

しかし「人身事故」という言葉を聞いて、悲しくなる人よりも、いらだつ人の方が多いということに、だんだんと気づきました。他者の命よりも、自身の予定の狂いに対して敏感な人の方が多いのです。

もちろん私も、そういう面が全くないわけではありません。

だけど、たとえばどうしようもなくこの現実から逃げたくなったとして
「海に行こう」とか
「美味しいものを食べよう」ではなく
「線路に飛び込もう」という発想は、
かなり精神的にやばいと思うのです。

どういう経緯でそういう状態になったかはわかりませんが、何らかの形での現代社会の”被害者”なのだと思うのです。

でも人身事故は、
「どうか犠牲者がいないといいな」ではなく
「電車遅れたん最悪」
という文脈に置かれることの方が多い。

前者と後者にはどういう違いがあるのだろう、と友人と話したことがあります。

そのときに出た結論は「自分が”そっち側”に行く可能性を考えたことがあるかどうか」ということでした。

“そっち側”というのは自殺者(被害者)側のことで、さらに言えば加害者側のことです。

われわれの拡張

哲学者リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』の中で、「連帯のために、われわれの拡張が必要だ」と述べています。「われわれ」は私たちが自分ごととして関わることのできる範疇のことです。残酷さに直面した他者への共感、そしてその残酷さの芽が自身の内側にもあること自認すること。これが大切だと訴えます。被害者に共感するだけではなく、加害者もまたわれわれと同類だと気づくこと。

ローティはその残酷さへの気づきは、文芸や報道に託されると論じました。実際私は、報道によって自身の加害性に気付かされました。

詳細は割愛しますが、端的に言えば辺野古の新基地建設について、自身の無関心が故に苦しめている人がいることに気がついたのです。それが19歳のとき。

私は「伝える側」の人になりたい、と思って新聞記者を目指します。ローティの言葉を借りれば、「われわれの拡張」のために新聞という手段を選んだのです。しかし就職活動は失敗、何をすればいいかわからず、とりあえず沖縄に引っ越しました。

沖縄ではたくさんの人に出会いました。珈琲を飲みながら少人数で話せる場所を作っている人。ドキュメンタリー映画を作ろうとするジャーナリスト。
みんなで垣根を越えて話し合える「公園」を作っている人。

いずれも「われわれの拡張」をしようとしている人たちでした。新聞以外にも色々方法はある、私に合う方法は何だろうと考えていたとき、私が出会ったのがコントでした。

行為には理由があると想像する

たとえば、ロングコートダディさんのコント『ママ』

※下記文章はネタバレなので、もしよければコントを視聴してからお読みください。5分30秒ほどのコントです。

マサユキくんが「ママ、こっちに来ておしゃべりしようよ」と呼びかけると、ママとして登場するのがスーツを着た男性。明らかに「ママ」ではないのに、マサユキくんはそのまま会話を続けます。

その状況と2人のやり取りがコミカルで面白いのですが、コントが続くと2人の言動の意味がだんだんわかっていきます。

しゃくれている人を見るとママだと錯覚してしまうマサユキくん。マサユキくんのために死んだママのモノマネをし続けていた先生。2人ともやっていることはおかしいのだけれど、その背景を知ると共感して、最後にはママの死を受け入れようとするマサユキくんを応援してしまいます。

作中人物の突飛な行為に「どうして」って思いもするけれど、きっと彼/彼女には理由がある。その理由が私たちにわかってもいいし、わからなくてもいい。わかったところで、同意しなくてもいい。

大切なのは、「一見理由がわからないけれども、彼/彼女なりの理由があってその行為を選択しているのだ」と認識すること。つまり他者への想像力を働かせることなのです。

ニュースよりもバラエティが見られるこの国で、私はお笑いという入り口で、視聴者が共感して想像力を広げるコンテンツを作りたい。それが、構成作家になる理由です。

それが実装できているのか、と言われたら自信を持って返事はできないけれど、自分の価値基準としては大切に持っていたい。目の前のことで手いっぱいな日々ですが、ときどきちゃんと思い出して生きていたいです。

作家業界の価値基準が自分に合っているかどうかは、正直なところわかりません。だけど20代を過ごすには、エキサイティングで楽しい業界だなと思います。

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