フェルマーの最終定理
フェルマーの最終定理は,17世紀フランスの裁判官ピエール・ド・フェルマーによって残され,その後300年以上に渡って未解決だった数論の有名な問題です.数学の未解決問題は専門的な内容すぎるため分野外の人間に理解することは難しいものもありますが,フェルマーの最終定理は小学生でも理解することができ,一見すると簡単な整数論の証明が問われているように思われます.
フェルマーは裁判所の仕事に従事するかたわら,趣味として数学の世界に没頭していました.彼に影響を与えたのが,古代ギリシャの数学者ディオファントスが書いた『算術』という書籍でした.『算術』には100を越える問題が掲載されていて,それらに対する詳しい解説が添えられていました.フェルマーはそれらを楽しむ中で,もっと難しい問題を思いつくこともありました.フェルマーはそれらの問題やその解法の一部を,『算術』の各ページの余白に記していきました.ただ,ディオファントスのように丁寧な説明を残すことはしませんでした.
そうした書き込みの一つがフェルマーの最終定理です.フェルマーは『算術』を読む中で,ピタゴラスの定理に関する詳しい解説に出会います.三つの自然数の組が無限に存在することなど,さまざまな記述を読む中で,そこにこれまで見落とされてきた何かを発見できないかとピタゴラスの方程式をいじりはじめたのかもしれません.
そうしてフェルマーは,『算術』の余白に自らの考えを記しました.
つまり,$${x^n + y^n = z^n}$$という方程式を満たすような自然数$${x, \, y, \, z}$$の組は,$${n}$$が2より大きい自然数の場合には存在しないということを言っています.
そしてフェルマーは,その後300年以上にも渡って人類を悩ませることになるこの書き込みを次のように締めくくりました.
この発見は,フェルマーによって発表されることはありませんでした.フェルマーが亡くなった後,フェルマーが趣味で数学に取り組んでいたことを知っていた息子のクレマン・サミュエル・フェルマーによって,フェルマーの数学資産は整理されました.クレマン・サミュエルは,5年かけて『算術』の余白に残された走り書きを吟味し,それらをまとめて『算術』の特別版として出版しました.そこにはフェルマーによる48の所見が添えられていました.
ただ,フェルマーの残した所見には,まったく説明がないか,証明をうかがわせるわずかなヒントが示されているだけでした.その後,数学者たちによってそれらの所見は少しずつ証明されていきましたが,ひとつだけ証明されずに残されました.それがフェルマーの最終定理です.
証明が難しいことは,その定理の重要性を意味するわけではありません.実はフェルマーの最終定理はつい最近まで,証明したところで数学的に深い真理や洞察が得られるわけではなく,何らかの別の予想を証明する上で重要な役割を担うわけでもないため,それほど重要ではないと考えられていました.
ただ,その後の研究によって,楕円方程式とモジュラーという全く異なると考えられていた数学の分野をつなぐ谷山=志村予想が発表され,その証明によってフェルマーの最終定理も自動的に証明されることが判明しました.そして,コリヴァギン=フラッハ法やガロア群といった最先端のテクニックを駆使することで,20世紀の終わりについに証明されることになりました.今回は300年以上に渡って数学者だけでなく多くの人たちを魅了した問題であるフェルマーの最終定理について紹介していきます.
オイラーによるn=3の場合の証明
フェルマーの最終定理の証明に向けて最初の一歩を刻んだのは,18世紀の数学者レオンハルト・オイラーです.オイラーは類まれな直観力に加えて,長大な計算を暗算でできる底なしの計算力を持っていたことで有名で,呼吸をするように計算をしていたと言われています.
実際オイラーは晩年に白内障になってしまい,やがて失明してしまいましたが,優れた記憶力と計算力のおかげで,視力を失ってからも17年に渡って数学の研究を続けたとされています.特に,ニュートンをはじめとする多くの科学者たちを悩ませてきた月の運行の計算をオイラーが完成させたのは,失明してからのことでした.
そんなオイラーでも,フェルマーの最終定理について証明できたのは限られた場合についてのみでした.オイラーは,フェルマーが書き込みを残した『算術』の中で,全く異なる問題の証明に,$${n=4}$$の場合についての証明の一部が記されていることに気付きました.その書き込みだけでは細かいところまでは不明でしたが,背理法の一種である無限降下法という手法が用いられていることはわかりました.そしてオイラーはたしかに無限降下法によって$${n=4}$$の場合が証明できることを確認しました.
$${x^4 + y^4 = z^4}$$
さらにオイラーはその証明を出発点として,2より大きい任意の$${n}$$について普遍的に証明することを考えました.その最初の一歩として示したのが$${n=3}$$の場合でした.実は$${n=3}$$の場合について,無限降下法をそのまま用いるだけではその証明の論理に穴が開いてしまいますが,オイラーは虚数を使えばその穴を塞ぐことができることを示し,$${n=3}$$についてフェルマーの最終定理が成り立つことを証明しました.
指数の性質から,3の倍数である6乗や9乗,12乗などで表せる数は3乗の数を用いて書き換えることができます.たとえば,64という数は4の3乗であり,2の6乗です.したがって,$${n=3}$$のときに対するオイラーの証明は,そのまま$${n=6, \, 9, \, 12, \cdots}$$の場合にも成り立つことになります.
$${x^6 = (x^2)^3}$$
つまり,フェルマーの最終定理を示すためには,$${n}$$が素数の場合だけを証明すればよいのです.このことから,証明すべき$${n}$$の数がかなり減ったように思われます.ただ実際は,素数の数についても無限にあることが示されているため,いずれにせよフェルマーの最終定理は無限にある方程式について示す必要があり,その困難さに変わりはありませんでした.
n=5およびn=7の場合の証明
オイラーが人類最初の一歩を踏み出した後,しばらく進展はありませんでしたが,19世紀に入るとフランスの数学者ソフィー・ジェルマンがフェルマーの最終定理の証明に向けて新たな貢献をしました.当時はまだ女性に対する差別と偏見があり,特に数学は女性には理解できないと決めつけるような風潮がありました.そんな時代にジェルマンは数学に興味を持ち,理解ある両親の元で独学で数学を学びました.
1794年,パリにエコール・ポリテクニークという理工系の高等教育研究機関が設立されました.数学を学ぶのに最適な場所と考えたジェルマンは,以前在籍していた他の男子学生の籍を借りて学校に潜り込むことにしました.
ジェルマンは彼の分の教材を無事に手に入れて,問題の答案を毎週偽名で提出していきましたが,ジェルマンの受講していた講座を担当していた数学者が,そのエレガントな答案に感銘を受けます.最小作用の原理にもとづく解析力学を展開したことで有名なフランスの科学者ジョゼフ・ルイ・ラグランジュです.ジェルマンに面会を求めたラグランジュは,ジェルマンが若い女性であることに驚きましたが,その後ラグランジュはジェルマンにとって良き指導者となりました.
やがてジェルマンは数論に興味を持ち,フェルマーの最終定理の証明にも挑戦し始めます.オイラーが$${n=3}$$についての証明を発表した後,多くの数学者たちがその他の場合を証明しようと試みたがうまくいきませんでした.これに対してジェルマンはより一般的に,$${2p+1}$$が素数となるような素数$${p}$$についてフェルマーの最終定理を証明することを目指し,解が存在する可能性はきわめて低いことを示すことができました.
その後1825年,ジェルマンの方法を改良することで,$${n=5}$$の場合にフェルマーの最終定理が成り立つことが証明されました.証明したのはドイツの数学者グスタフ・ルジューヌ・ディリクレとフランスの数学者アドリアン・マリー・ルジャンドルで,それぞれ独立に証明を発表しました.1839年にはフランスの数学者ガブリエル・ラメによって$${n=7}$$の場合が証明されました.ジェルマンによって素数という集合の切り崩し方が示され,数学者たちはさまざまな素数$${n}$$についてフェルマーの最終定理を証明しようとしていました.
1847年には前代未聞の出来事が起こります.数多くの数学者たちが集う学士院での会合において,ラメがフェルマーの最終定理の完全な証明が得られる直前であることを宣言したのです.驚く聴衆の前でラメが演壇を離れると,続いて登壇したのはフランスの数学者オーギュスタン・ルイ・コーシーでした.そしてコーシーもまた,フェルマーの最終定理の証明に取り組んでおり,完全な証明を発表できそうであることを宣言しました.
数週間後,二人はそれぞれ独立にフェルマーの最終定理の証明を学士院に投稿しました.これで未解決問題が証明されたかに思われましたが,ドイツの数学者エルンスト・クンマーによって,ラメとコーシーの証明に根本的な問題があることが指摘されました.
どちらの証明も素因数分解の一意性と呼ばれる性質に依存していました.素因数分解の一意性は,算術の基本定理とも呼ばれていて,任意の正の整数は1を除いて,素数の積としてただ一通りに表すことができる,というものです.
一見するとこれに依存することに問題はないように見えました.しかし,クンマーは,ラメとコーシーの証明には虚数が含まれていることに気が付きました.素因数分解の一意性は実数については成り立ちますが,虚数については必ずしも成り立たないため,これに依存することは致命的な欠陥となってしまうのです.
ただし,このことでラメとコーシーの証明が全面的にダメになったわけではありませんでした.クンマーは,さまざまな$${n}$$について一意性を復活させられることを示しました.ただ,$${n}$$が非正則素数という種類の素数の場合は一意性の問題を回避できませんでした.当時の数学のテクニックでは,無限に存在している非正則素数をまとめて扱う方法がなかったため,フェルマーの最終定理は証明できないと考えられるようになりました.
コンピュータによる証明の限界
証明に使える手法が尽きていたため,しだいに数学者たちの興味はフェルマーの最終定理から他の領域へと移っていきましたが,暗号解読の観点で数学者の戦争とも称される第二次世界大戦が終わる頃,人類はフェルマーの最終定理に立ち向かうための新しい道具を得ることになります.圧倒的な計算力を持つコンピュータです.
イギリスの科学者アラン・チューリングによってコンピュータが設計され,やがてわずかな時間で膨大な量の計算を行うことのできる計算機が登場しました.クンマーによって,フェルマーの最終定理を証明する際に厄介なのは$${n}$$が非正則素数の場合であることが示されていました.そして,膨大な量の計算を行うことで,それぞれの非正則素数の場合はひとつずつ処理していけることも示されていました.クンマーは100以下の非正則素数である37と59および67の場合については証明していましたが,その後それより大きい非正則素数の場合について計算しようとする数学者はいませんでした.
コンピュータを手に入れた今,その計算コストは大きな問題ではなくなりました.そこで数学者たちはコンピュータ科学者たちとともにこの問題に片っ端から取り組んでいきました.証明された非正則素数はどんどん大きくなっていき,1980年代には25000までの非正則素数についての証明が示されました.
ただ,こうしたコンピュータによる力技によってさらに大きな$${n}$$について証明したとしても,無限に続く$${n}$$のすべてについて証明することは原理的には不可能であることを数学者たちは知っていました.たとえ100万まで証明されたとしても,100万1で成り立つかは不明ですし,たとえ100億まで証明されたとしても,100億1で成り立つかは不明です.
実際,かつてフェルマーの方程式に似たこちらの方程式
$${x^4 + y^4 + z^4 = w^4}$$
には,自然数の解がないという予想がオイラーによって提示されました.オイラーの予想と呼ばれます.オイラーの予想は発表から約200年の間未解決でしたが,1988年に次のような解が見つかり,オイラーの予想は成り立たないことが示されました.
$${2682440^4 + 15365639^4 + 18796760^4 = 20615673^4}$$
さらに,この方程式には無数の解が存在することも証明されました.このことからもわかるように,ある有限の値について予想を示したとしても,無限に続く値のどこかに反例が存在する可能性を棄却することはできないため,完全な証明とは言えません.
こうしたコンピュータによる方法は数学的な証明ではなく,科学的な証明に近いものかもしれません.科学における法則や理論は,ある自然現象を説明するための仮説であり,その現象に関する具体的な実験や観測の結果が仮説と矛盾していなければ,その仮説が成り立つことの証拠となります.さらに,その仮説から他の現象を予測することで,その予測を検証する実験や観測を実施し,その結果が予測と矛盾しなければ,その仮説はさらに支持されることになります.
そうしてその仮説に対する証拠が十分に集まったとき,その仮説は科学的な法則や理論として受け入れられることになります.つまり,科学的な法則や理論は絶対的なものではなく,正しい可能性がきわめて高いと言えるだけです.
これに対して数学の定理は,真であると仮定された命題や,真であることが明らかな命題である公理から出発して,論理を積み重ねた上に成り立つものです.したがって,命題や公理が真であり,論理が完全である限り,結果として得られる定理は絶対的に正しいことになるのです.コンピュータによる計算によって有限の$${n}$$についての証明が進むことで,フェルマーの最終定理が正しい可能性は高くなったと言うことはできそうです.しかしそれは絶対的なものではないため,そのままでは定理とは言えませんでした.
谷山=志村予想
そんな中,第二次世界大戦後の日本で壮大な予想が提示されます.日本の数学者谷山豊(とよ)と志村五郎は,楕円曲線とモジュラー形式は実質的に同じであり,これらの世界は統一できると主張しました.
楕円曲線は,次のような形を持つ方程式を指します.
$${y^2 = x^3 + ax^2 + bx + c}$$($${a, \, b, \, c}$$は任意の整数)
かつて,この形の方程式が惑星の描く楕円軌道の長さを測るのに使われたため,楕円曲線と呼ばれます.以下,楕円方程式と呼ぶことにします.楕円方程式は,ディオファントスの『算術』でも扱われた長い歴史のある分野です.
これに対して,モジュラー形式は19世紀に発見されたばかりの比較的新しいトピックです.モジュラー形式は二つの複素軸で定義されますが,それぞれの軸に実部と虚部がありますから,実質四次元空間で表現されることになります.この四次元空間を双曲空間と呼びます.私たちのいる三次元空間より一次元増えたこの次元のおかげで,モジュラー形式はきわめて高い対称性を持つことが知られています.
楕円方程式とモジュラー形式は,いずれも数学の一分野でそれぞれ精力的に研究されていましたが,あくまで全く別の分野であると考えられていました.ところが谷山と志村は,これらが実質的に同じであると考えたのです.こうした分野間のつながりはとても重要な意義を持ちます.
たとえば,かつて電気と磁気は互いに全く関係のない別の自然現象として捉えられていました.しかし研究が進むにつれ,電流が磁場を生み出すことや,磁石が電気を生み出すことなどが発見されて,これらのつながりが次第に明らかにされていき,やがて電気と磁気を統一的に記述する電磁気学が構築されました.
楕円方程式は,ある計算法による解の個数で特徴づけることができます.E系列と呼ぶことにします.E系列には楕円方程式に関する多くの情報が含まれていることから,楕円方程式のDNAのようなものと考えることができます.一方でモジュラー形式にもDNAのような基本構成要素があることが知られていて,M系列と呼ぶことにします.
谷山はいくつかの保型形式のM系列が,それぞれ楕円方程式のE系列によく対応していることに気が付きました.保型形式というのは,モジュラー形式を含むような関数を指しています.そして次第に,すべての楕円方程式のE系列は,どれかの保型形式のM系列になっているのではないかと考えるようになり,1955年に開かれた数学の国際シンポジウムで仮説として提示しました.
多くの数学者たちは谷山の仮説を単なる偶然の一致ではないかと捉えていましたが,志村は谷山の仮説に興味を持ち,それを発展させる仕事に取り掛かりました.そして次第に志村は,すべての楕円方程式がモジュラー形式に関係づけられるのではないかと考えるようになりました.それを証明することはできませんでしたが,志村が積み上げた証拠によって楕円方程式とモジュラー形式に関するこの仮説は広く受け入れられるようになり,谷山=志村予想と呼ばれるようになりました.
谷山=志村予想は,数学者にとってのロゼッタストーンのような存在でした.考古学者たちは,古代エジプトの民衆文字と,古代ギリシャ文字,神聖文字であるヒエログリフという三つの文字が並べて刻まれていたロゼッタストーンのおかげで,ヒエログリフを解読することができました.数学者たちは谷山=志村予想によって,楕円方程式の分野で長い間未解決のまま残されている難しい問題を,モジュラー形式の分野に翻訳して解いたり,その逆もしたりできるという素晴らしい可能性を感じていました.
実際,谷山=志村予想は証明されていませんでしたが,もしも予想が正しいとすると何が言えるか,といった形で数多くの推測が論文として出版されていきました.谷山=志村予想が成り立つと仮定して,未解決の問題の解き方が述べられていき,そこで得られた結論はまた仮説のまま別の理論に組み込まれていく.そうして谷山=志村予想を土台にした数学がどんどん膨れ上がっていき,谷山=志村予想の証明はとても重要な問題のひとつとなっていきました.
フライの予想とリベットによる証明
そして谷山=志村予想はフェルマーの最終定理と密接に関係づけられることになります.1984年,ドイツの数学者ゲルハルト・フライは,谷山=志村予想を証明することは,フェルマーの最終定理を証明することになるという主張をしました.
フェルマーの最終定理に対する反例として,フェルマー方程式が少なくともひとつの解の組を持つことを仮定します.
$${A^N + B^N = C^N}$$
このとき,厳密な数学的手続きによって,次のような楕円方程式が得られますが,この仮想的な楕円方程式はモジュラーではないことが示されます.つまり,谷山=志村予想に反するのです.
$${y^2 = x (x-A^N) (x+B^N)}$$
したがって,フェルマーの最終定理が成り立たなければフライの楕円方程式が存在しますが,フライの楕円方程式はモジュラーではないため,すべての楕円方程式がモジュラーであるとする谷山=志村予想の反例となり,谷山=志村予想が成り立たないことになります.
この論理を逆転させると,谷山=志村予想が成立すれば,すべての楕円方程式はモジュラーであるため,フライの楕円方程式は存在しません.したがって,フェルマー方程式を満たす解は存在せず,フェルマーの最終定理は成立することになります.
フライによって,谷山=志村予想が証明できれば,フェルマーの最終定理も自動的に証明されることが主張されました.その後,フライの楕円方程式がモジュラーでないことの厳密な証明がアメリカの数学者ケン・リベットにより示されました.長い間未解決のまま残されたフェルマーの最終定理が,数学上大きな意義を持つと考えられる谷山=志村予想とつながりました.ただ,それは決して問題が簡単になったわけではありませんでした.谷山=志村予想は30年以上も未証明のままだったため,当時の数学者たちの多くはいずれにせよ証明はきわめて困難であると捉えていました.
ワイルズによる挑戦
リベットが谷山=志村予想とフェルマーの最終定理のつながりを証明したことを受けて,この問題に本格的に取り組み始めた研究者のひとりがイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズでした.
ワイルズは10歳のときに図書館で手に取った書籍でフェルマーの最終定理に出会いました.当時すでに数学の多大なる魅力に取り憑かれていた少年は,とても簡単そうに見えるにも関わらず過去の偉大な数学者たちが解くことのできなかったその問題の存在を知り,「私がこの問題を解かなければならない」と思ったそうです.
1975年にケンブリッジ大学の大学院生になったワイルズは,オーストラリア出身の数学者ジョン・コーツのもとで楕円曲線論の研究に取り組み始めました.当時まだフェルマーの最終定理と谷山=志村予想の関係は明らかにされていませんでしたが,ワイルズはコーツとともに偶然にも楕円方程式の研究に邁進しました.
ケンブリッジ大学で博士号を取得したワイルズはプリンストン大学に移り,世界で最も楕円方程式に精通した研究者の一人となっていました.そこにリベットの証明の話が伝わってきたのです.子どもの頃に抱いたフェルマーの最終定理を解決したいという夢が,楕円方程式と密接に関連する谷山=志村予想を解決するという問題になったことを知り,ワイルズは本気で取り組む覚悟を決めました.
ワイルズはフェルマーの最終定理に関係ない全ての研究から手を引き,さらに大学教員としての業務についても学生への研究指導や講義,学科のセミナーへの出席といった必要最小限のものに絞りました.そして大学での雑用から逃れるためにできるだけ自宅にひきこもり,谷山=志村予想を証明するための武器を集めようと新しいテクニックを習得し,それらの強化拡張に努めました.
数学者の多くは,研究を進めていく上で研究者間のコミュニケーションを重要視しています.研究会に参加したりお互いの大学を訪ねてセミナーをやったりして進捗を報告し合う中で,互いに知恵を共有したり議論したりすることでさらなる研究へとつながる可能性があるためです.また,互いに称賛し合うことは,モチベーションを高めることにもつながります.研究者間とのやり取りを絶ってひきこもることで,精神的に辛い状況に置かれたかもしれません.
しかしワイルズは着々と歩みを進めていきました.さまざまな方法を検討したワイルズは,数学的帰納法と呼ばれる方法で証明を試みることにしました.帰納法による証明は,まずその命題が$${n=1}$$の場合について成り立つことを示します.続いてその命題がある$${n}$$について成り立つならば,$${n+1}$$についても成り立つことを示します.これらによって,まるでドミノ倒しのように,その命題が$${n=1}$$について成り立つなら$${n=2}$$についても成り立ち,$${n=2}$$について成り立つなら$${n=3}$$についても成り立ち…といった具合に,その命題がどこまでも成り立つことが証明される,というわけです.
ワイルズの課題は,無限に存在する楕円方程式のひとつひとつが,無限に存在するモジュラー形式のひとつひとつに対応することを示すことでした.それまで数学者たちは,楕円方程式のあるE系列がモジュラー形式のあるM系列に一致することを示し,そしてまた別の楕円方程式について同じことを続ける,といった方針を取っていました.ただ,こうした方法では無限に存在する楕円方程式をどのような順番で扱えばよいかわからないため,帰納法を適用することができません.
そこでワイルズの採用したアプローチは,楕円方程式のすべてのE系列とモジュラー形式のすべてのM系列のひとつ目の要素が一致することを示し,続いて次の要素が一致することを示す,といったものでした.E系列の要素には決まった順番があるため,この方法なら帰納法によって命題を証明できると考えたためです.
そしてワイルズは,証明の最初の段階はフランスの数学者エヴァリスト・ガロアによって研究された群論と呼ばれる概念によって可能になることに気付きます.ガロア群論を用いた分析により,楕円方程式のすべてのE系列の最初の要素が,モジュラー形式のすべてのM系列の最初の要素と一致することを示すことに成功したのでした.
宮岡による挑戦
そんな中1988年,日本の数学者宮岡洋一がフェルマーの最終定理を証明したと発表しました.微分幾何学というこれまでと全く異なる角度から証明することを試みた結果でした.微分幾何学と数論の間の関係は1970年代から議論され始めました.微分幾何学の領域ですでに解決された問題を吟味することで,数論の未解決問題が解ける可能性があると期待されていたためです.
実際,1983年には微分幾何学によってフェルマーの最終定理に関する新たな知見が得られました.ドイツの数学者ゲルト・ファルティングスは,フェルマー方程式に対応する図形を微分幾何学的に調べたところ,$${n}$$が異なれば図形は異なりますが,どの形にも複数の穴が開いていることを発見しました.そしてこのことから,フェルマー方程式の整数解の個数は有限個であることを証明しました.解が存在しないとするフェルマーの最終定理を証明したわけではありませんでしたが,解が無限に存在する可能性を排除することに成功したのでした.
その五年後,宮岡は微分幾何学によってフェルマーの最終定理を証明したと主張したのでした.宮岡が論文を発表するやいなや,世界中の数論研究者や微分幾何学の研究者たちが徹底的に吟味していきました.そして数日後,矛盾らしきものがあるとの報告があがりました.宮岡の論文で導かれている数論に関する結論の中で,それを微分幾何学に対応づけると既存の結果と矛盾するものがあったのでした.
やがてその誤りはファルティングスにより突き止められました.宮岡だけでなく大勢の研究者たちがその誤りを修正することに尽力しましたが,結局それは実を結ぶことなく,証明は失敗に終わってしまいました.ただ,宮岡の試みは新しい数学を生むことにつながりました.宮岡の論文はすべてがだめになったわけではなく,微分幾何学を数論に応用した独創的な証明が含まれていたため,それらはその後さまざまな定理の証明に利用されることになりました.
コリヴァギン=フラッハ法
1990年,ワイルズはガロア群を楕円方程式に応用することで,楕円方程式のすべてのE系列の最初の要素がモジュラー形式のすべてのM系列のひとつ目の要素に一致することをすでに示していました.そして,帰納法によってすべての要素について証明する方法を探していました.岩澤理論と呼ばれる楕円方程式を分析するための手段を知り試しますが,それもうまくいきませんでした.
翌1991年,古いものから新しいものまで,これまでに知られているあらゆる方法やその拡張も試してきたワイルズは,帰納法による証明へとつなげるためにはまだ発表されていない革新的な手法が必要かもしれないと考え始めました.これまで数学界から離れてひきこもり研究を続けていましたが,最新の話題に触れて新たな着想を得ようと考えたのです.
楕円方程式の専門家会議に出席したワイルズは,大学院で指導を受けたコーツから興味深い話を聞きます.アメリカの数学者ヴィクター・コリヴァギンが最近開発した方法をもとに,コーツの指導している学生マテウス・フラッハが行っている楕円方程式を分析する研究の話でした.ワイルズは,そのコリヴァギン=フラッハ法を発展させれば,帰納法がうまく使えるかもしれないと考えます.
プリンストンに戻ったワイルズは,数ヶ月をかけてコリヴァギン=フラッハ法に習熟します.そして,楕円方程式はいくつかの族に分類されますが,一部の族のすべての楕円方程式について,帰納法がうまくいくことを発見しました.さらに,コリヴァギン=フラッハ法を洗練させることで,適用できる楕円方程式の族はどんどん増えていきました.
ただ,ワイルズは不慣れなコリヴァギン=フラッハ法の扱いに不安を覚え始めます.そこで1993年,同じくプリンストン大学の数学科に所属し,信頼のおける存在だった数学者ニック・カッツに論理や計算のチェックをお願いすることにしました.
膨大な量のチェックを誰にも怪しまれずに行うために,ワイルズとカッツは大学院生向けに「楕円曲線の計算」という講座を立ち上げました.そこではフェルマーの最終定理や谷山=志村予想には全く触れず,ひたすらチェックの必要な専門的な計算を実行していきました.目的がわかっていない限り,とても専門的で退屈な計算だったため,次第に受講する大学院生は減っていき,やがてそのワイルズの講座の受講生はカッツだけになっていました.
カッツは熱心な受講生として,ワイルズの計算や論理のひとつひとつを丁寧に確認していきました.カッツには,コリヴァギン=フラッハ法を用いた証明はうまくいっているように見えていました.一連の講義の後,ワイルズは証明の完成に注力しました.そしてついに楕円方程式の最後の族に対してもコリヴァギン=フラッハ法を適用させることに成功し,谷山=志村予想の証明を完成させました.
ワイルズの証明と挫折
七年間の研究の末,ワイルズは谷山=志村予想,ひいてはフェルマーの最終定理を証明することに成功しました.そして1993年6月,ワイルズは大学院時代を過ごしたケンブリッジで専門家会議が開かれることを知り,そこでこの成果を発表することにしました.
ワイルズは「モジュラー形式,楕円曲線,ガロア表現」という題目で三日間に渡る講演を行いました.一回目の講演は,谷山=志村予想に取り組むための基礎を築くものだったため,インパクトのある内容ではありませんでしたが,大きな成果につながるのではないかという噂が広まり,翌日の二回目の講演では聴衆が大幅に増えました.ただ,その日も谷山=志村予想の証明にまでは至らず,本当にその証明が発表されるのかは不明のままでした.
そして迎えた三回目の講演.噂が噂を呼んだため会場は満員で,外から窓を覗き込む人たちもいたほどでした.ワイルズはついに七年に及ぶ精力的な研究の集大成として,谷山=志村予想の証明を発表しました.証明を終えると会場は喝采に包まれ,数学者たちはすみやかにその大ニュースをメールで広めました.やがて科学記者が押しかけ,この成果はテレビや新聞各紙で大々的に取り上げられました.ワイルズは一躍時の人となり,米国ピープル誌によって今年最も関心を集めた25人に挙げられたほどでした.
ケンブリッジでの講演を終えたワイルズは,谷山=志村予想の証明を論文として専門の科学雑誌に投稿しました.科学的成果をまとめた論文は,第三者の専門家による審査を経て,初めて科学雑誌に掲載されます.ワイルズの論文ではさまざまな数学的手法が用いられていたため,六人ものレフェリーが選ばれ,分担して査読を実施することになりました.
ワイルズによる谷山=志村予想の証明は,何百もの計算が何千もの論理によって複雑に組み立てられた巨大な建造物のようなものでした.その中の計算の一つに間違いがあったり,論理の一つがほころんだりしただけで,証明全体が崩れ落ちてしまう恐れがあったため,レフェリーたちは提出された論文原稿を丁寧にチェックしていきました.読み進める上で疑問が生じるとワイルズにメールで聞くこともありましたが,たいていすぐに返事が届いて疑問は解消されました.
そんな中,レフェリーの一人だったカッツは,これまでと同じようにささいな疑問を持ったため,ワイルズにメールで聞きました.しかし,ワイルズからの返答ではその疑問は解消されず,次第にそれはささいな問題ではなく根本的な欠陥であると考えるようになっていきました.その問題はコリヴァギン=フラッハ法に関わる重要な部分にありました.
ワイルズらによる完全な証明
この問題を修復するためワイルズは全力を尽くしましたが,秋になっても解決されませんでした.論文がなかなか公開されなかったことから,次第に数学界ではワイルズの証明に問題があったのではないかという噂が流れ始めました.
やがて,論文を公開すべきであるという批判の声が聞こえるようになりました.論文を公開することで,たとえそれが不十分な証明であったとしても,どこかの誰かがその欠陥を修復する方法を考えつくかもしれないというのです.しかしワイルズは論文の公開を拒みました.七年もの歳月を捧げてきたこの仕事を他人が完成させることが許せなかったからかもしれません.
やがて冬が訪れ,問題の修復に難航したワイルズは考え抜いた末に,今回のレフェリーの一人であり,コリヴァギン=フラッハ法に熟達した教え子でもある数学者リチャード・テイラーと共に研究を進めることにしました.テイラーの協力を得たワイルズは,コリヴァギン=フラッハ法を根気強く調べ続けました.ただ,二人で手探りで進める中で不意に新しい領域へと出ることもありましたが,結局うまくいかず元の場所へ戻ってしまうのでした.
夏になっても進展はなく,ワイルズはいよいよ証明の失敗を認める覚悟を決めようとしていました.ワイルズとテイラーは話し合い,九月いっぱいまで取り組んで修復の見通しが立たなければ,他の数学者たちが自由に吟味できるよう,欠陥のある証明を発表することを決めました.
ワイルズは最後にせめてもの慰めに,修復がうまくいかない理由を突き止めようと,もう一度コリヴァギン=フラッハ法に取り組むことにしました.そんな中,ワイルズに突如としてある閃きが舞い降りてきました.以前適用を試みて断念した岩澤理論が,コリヴァギン=フラッハ法を組み合わせることによって使えるようになることに気付いたのです.コリヴァギン=フラッハ法も岩澤理論もいずれも谷山=志村予想を証明する上で単体では不十分でしたが,互いに補い合うことで完全になることがわかったのでした.
1994年10月,二本の論文が発表されました.ひとつはワイルズによる「モジュラー楕円曲線とフェルマーの最終定理」という論文で,いくつもの証明とともにフェルマーの最終定理の証明がなされています.もうひとつはテイラーとワイルズによる「ある種のヘッケ環の環論的性質」という論文で,最初の論文の中の重要なワンステップが論じられています.
合計で130ページに及ぶこれら二本の論文は,徹底的な審査を受けて,1995年5月に査読雑誌に掲載されました.今回の証明には疑問の声は上がりませんでした.ワイルズは,さまざまな数学的手法を巧みに組み合わせ,これまで不可能と思われていた方法によってフェルマーの最終定理を証明することに成功しました.
今回は300年以上に渡って未解決のままであった数論の問題であるフェルマーの最終定理について紹介してきました.一見すると簡単そうに見えるこの問題は,実際はモジュラー形式や谷山=志村予想,ガロアの群論,コリヴァギン=フラッハ法,岩澤理論といった20世紀までのさまざまな数学的手法を駆使してようやく示されました.
一方で,数学の分野では現在もまだ予想の段階にとどまっている問題が数多く存在しています.フェルマーの最終定理を証明したワイルズ自身,これほどの問題に出会うことはもうないと考えていますが,その一方でこれからの世代の人たちの心を捉え数学の道へと引き入れてくれるような新しい問題を見つけたいという思いもあるでしょう.また新たな問題に人類が出会い,その解決に向かう中で知の地平が広がることに思いをはせて,この記事を締めくくりたいと思います.
参考文献
フェルマーの最終定理
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