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将軍地蔵尊

大阪市天王寺区上本町8-9-14にある「将軍地蔵尊」の由来が書かれた石碑の文章をとりあえず書き起こししてみました。

『この将軍地蔵尊は大阪師団創設の頃城内東南部杉山より小宮町に移されたが、偶今次の特別都市計畫に伴う街路の整備にかかり、町有志の奇特と地主野村建設株式會社の厚意に依り現地に再建せされたものである。
後(御?)本体は継体天皇の御宇任那国主であつた、火葦北国造刑部靱部阿利斯登公の子日羅公の佛化像と謂われる抑。
日羅公は生来文武の道に秀で、宣化天皇の御代久しく百済に在つて高位に上り、日本に同じく服属した韓諸国の保護に當つた敏達天皇十二年、任那の復興に召還されて歸朝し爾後国政諮詢の重任を辱うした。
其献策は推古天皇の冠位制、聖徳太子の十七條
憲法、孝徳天皇の大化新政等に現れ国史に著名の事績である。
公一度薨去となるや敏達帝深くその功を嘉し詔を以つて、天満同心町に収葬せしめられた。
後年肥後熊本に移葬の際、その墓所を發祥とした地蔵堂の菩薩像は神采奕々極めて、古く公又は太子の作と呼ばれる。
其後日羅公は京都愛宕神社を始め各地に祭られたが、茲に安置した尊影は大阪に於て最も由緒深いものである。
即ち往昔坂上田村麿公が日夜信仰した将軍地蔵こそ、日羅公の權化として今尚霊験益々あらたかな等身大の石彫座像である。
今回町篤信家の發願が見事實を結んで、新装の淨域に我が将軍地蔵の慈顔を常世仰ぐことヽなつた事は、衆人の随喜する所である。
将来こヽに朝夕参詣する善男善女が、普くその加護を受けらるる様祈念して衷心この竣工を祝福するものである』

昭和廾八年五月 出口常順題 松井孝禎撰并書』
(読みやすくする為に、句読点と改行を加えました)

「将軍地蔵尊」とは元々 「愛宕修験によって、愛宕山白雲寺の本尊の勝軍地蔵が愛宕山に垂迹した権現としてイザナミが祀られた。地蔵信仰だけでなく、塞神信仰や天狗信仰も混在した。」(ウイキペディア) という事ですが、この上本町のお地蔵さんは、「日羅の権化」を由来としているようです。
おそらく、すぐ近くにある敏達天皇を祀っている五條宮に関連付けて創られた後付けの説話ではないかと思いますが、物部贄子や大伴糠手子も絡んでくる日羅の事に関係があるのかと思うと、興味津々になって来ます(笑)


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