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中世の環濠集落を訪ねて2 萱振(大阪府八尾市)

 萱振地区は大阪府八尾市の中北部、河内平野において長瀬川と玉串川に挟まれた低位沖積地にあります。この一帯では弥生時代から肥沃な土壌と豊富な水量を背景とした農耕社会が構築され、多くの集落が営まれて来ました。
 平安時代の「和名類衆抄」によれば、若江郡は北から川俣郷 ・ 余戸郷 ・ 新治郷 ・錦織郷・巨麻郷・刑部郷・弓削郷があり、そのうち萱振の範囲は錦織郷の南部にあたります。
 鎌倉時代以降、南北朝の内乱、両畠山氏の争い、織田信長による大坂の石山合戦などの戦乱の渦中のなかで、集落の規模は収縮して、防御を目的とした環濠集落が成立したと思われます。この頃、萱振環濠集落の中東部には萱振城が存在していました。城と言っても後の総構えのある城ではなく、平地に築かれた平城であったと思われます。
 室町時代中期の文明二(1470)に萱振城内に浄土真宗本願寺派の萱振御坊恵光寺が創建されました。
 天正ニ・三(1574・ 1575)年には、織田信長の河内平定に反抗した恵光寺を中心とした門徒衆を中心とした戦いが行われており、大坂石山本願寺の河内での拠点として萱振が大きな役割を果たしました。
 萱振集落内には南北に縦断する主要街道河内街道が通り、集落の北で大坂玉造から大和竜田へ通じる十三街道と合流する交通の要衝でありました。このため、南北朝から戦国期にかけて絶えず戦乱の危機に晒されて、防御的な形態の環濠集落となったのでしょう。





画像A 集落の南口だったと思われます。門が有ったかもしれません。

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G 加津良神社
この付近が集落の北口だったのではないでしょうか。


H 徳蔵寺

I  河内街道の碑


J 恵光寺

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(参考: 「萱振遺跡」八尾市文化財調査研究会報告109     2008 財団法人 八尾市文化財調査研究会)

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