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遊女塚

 今の尼崎市神崎の地は、長岡京への遷都以来、西国と都を結ぶ神崎川を行く舟の中継点の湊として人や物が集まり大いに栄えました。そしてそれとともに大江匡房が言った「天下第一の楽地」として遊女が集まる歓楽街にもなったのです。

摂津名所図会「神崎の渡し」
遊女塚


 この遊女塚は当時神崎にあった如来院という寺院の由来である、法然上人と遊女についての伝承に基づく供養塔として建立されたものであります。
 法然上人が京都から讃岐へ遠流される途中立ち寄った神崎で、当時釈迦堂と呼ばれた今の如来院で、法然上人の説法を受けた5人の神崎遊女は、自らの罪業を悔い、極楽浄土に往生出来る事を信じて入水します。それを哀れんだ村人達が河岸に葬ったのが遊女塚であると言われています。
 その後の時代に釈迦堂の後身如来院が供養の墓碑を建立し、その表には六字名号、裏には五人の遊女の名前、吾妻・宮城・かるも・おぐら・大仁ん(だいにん)が刻まれていたそうですが、今はその名前は読めません。

遊女の墓碑


 この遊女塚を題材として、江戸時代の文豪上田秋成は春雨物語のなかで「宮木ヶ塚」を書きました。
 時代は過ぎて、色々な事情により今、この梅が枝公園の中に塚はあります。



 ところで面白いことに、法然上人と遊女に関する説話はここだけではなく、たつの市三津町室津にある浄運寺にも伝わっております。法然上人が遊女を教化するという大筋は同じなのですが、その後遊女「室の君」は出家したことになっています。
 京都知恩院所蔵の「法然上人絵伝」ではこちらの話になっているようです。

法然上人絵伝
舟から法然上人に語りかける室津の君



 歴史に名を残した人に関する伝承は、いくつものパターンが発生するのが常ですね。

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