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中世の環濠集落跡を訪ねて4 稗田(奈良県大和郡山市)

 中世の環濠集落の原形を現代に良く残している代表例が、ここ大和郡山市の稗田でしょう。JR大和郡山駅から歩いて約20分、地蔵院川、佐保川を越えた平地部に位置します。
 周辺地域の住宅地開発は進んでいますが、この稗田の集落はかつて大阪平野にあった惣村のように、それに飲み込まれ原形が判別しがたくなる、という事もなく往年の村落の形をほぼ綺麗な形で残しているのではないでしょうか。

 中世における環濠集落は、戦国の時代に惣村の防衛のために村落の指導者である農民であるが武士でもある地下侍や、浄土真宗寺院のような宗教勢力が中心となり濠を巡らし土塁を築いたという見方が一般的であるかも知れません。
 しかし応仁の乱以後、戦国時代と一括りにされている時代だけに戦乱があった訳ではありません。
 室町時代の大和国の特性として、守護地頭が存在せずに、興福寺が在地領主である国人を衆徒として寺院の組織に組み込んで事実上の守護として国を支配していました。
 そのうち勢力の大きいものは興福寺一条院衆徒の筒井氏、大乗院の古市氏、国人としての越智氏、十市氏、箸尾氏があげられます。
 この勢力同士の権力闘争が応仁の乱以前に有った上に、地下侍を指導者とする惣村の土一揆や徳政一揆でこの時代の大和国は戦乱が絶えなかったのではないでしょうか。

賣太神社

 稗田荘は元々京都の仁和寺領荘園でした。
それがどう言う経緯なのかよくわかりませんが、興福寺大乗院衆徒の古市氏が荘官として支配するようになりました。
 この賣太神社(めたじんじゃ)は古市胤仙の館であったと伝えられています。
 奈良興福寺大乗院の門跡、経覚が記した日記「経覚私要鈔」によれば、文安元年(1444)2月、古市胤仙が稗田を「我城」に引いたという記事があるそうです。
 胤仙が稗田の集落の周りに濠を引き、土塁で囲んだ最初の当事者であると考える事も出来ますね。
 稗田は文明11年(1479)、14年(1482)に筒井方に焼かれたという記録があります。
 おそらく古市氏と筒井氏の争いが長年続いていたのでしょう。

 今は稗田を囲む濠も静かに佇んでいます。

 稗田を舞台にした少年向けの小説があります。

 浜野卓也氏が書いた「堀のある村」
 時代背景としては、応仁の乱の時代に環濠が築かれた様に描かれていて、実際の年代とは少しずれています。
 小説の中では村の地下侍が中心となって、防衛の為と田畑の水利のために、村人が協力しあって濠を築いた事になっています。

 いずれにしても研究によっては大和国だけで200箇所あったと言う環濠集落。それぞれに成立した経緯は何通りもあり、一括りに戦国時代の村の防衛のために、惣村の人たちが自主的に濠や土塁を築いたとは言えないと思いました。

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