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過去を色眼鏡で見ないことー木村伊兵衛の展示に寄せて

ここでいう過去とは、自分の記憶の中にあるような経験した過去ではなく、自分の生まれるもっと前、自分の知り得ない時間としての過去である。

「木村伊兵衛と画家たちの見たパリ色とりどり」ーー言わずと知れた日本の名写真家・木村伊兵衛の作品のうち、日本人写真家として戦後初めてヨーロッパを取材した彼がカラーで捉えたパリのスナップ写真群をメインとして、目黒区美術館が企画した展示である。

今回の展示は、フライヤーに印刷された彼の写真に惹かれたことがきっかけで足を運んだものだった。

展示のフライヤー

これまで、日常生活の中で自分や他人の撮った写真を見て「いいな」と思うことはあっても、展示という形で語られるものを見るというように、きちんと写真と向き合ったことはなかった。美術史の中ではっきりとその存在を意識したのは、シュルレアリスムの中で主にマン・レイらが採用した、技法としての写真に惹かれたのが初めてだったように思う。そのほか、新しい時代、カラー写真なども見たが、鮮やかすぎるものは好きではなく、眠り展で見た水の写真など、好きなものは少ししかなかった。

言わずと知れた、などと書いたが、木村伊兵衛の名を知ったのはこの時が初めてであった。その後しばらくして、「木村伊兵衛賞」なる写真賞があることを知り、そこでようやく彼がとんでもない写真家であったことを知るのである。

フィルム独特の色彩や、そこに映る人々の服装や車のデザインといった点で私を魅了したフライヤーの写真であったが、展示室で目にした彼の写真群はもっと別な理由で私の心を惹きつけた。1950年代のパリという、目にしたこともない過去を写したはずのものが、彼のカラー写真の技術においては同時代的に感じられたのである。隔たった時代を同時代として感じ取ることができる、いわばタイムスリップ的な体験をもたらしてくれる写真であった。しかし、タイムスリップであれば、(相対的に)未来にいる自分が過去を体験する、というように「過去」としての色眼鏡でその時代を見ることになるが、彼の写真の場合は、それが当然であった空気、雰囲気を感じ取ることができるという意味で、過去のはずの時間が現代として流れているパラレルワールドを見ているような感覚に近い。

同時代性を感じられるからといって、それが鮮やかすぎることはない。現代に撮られたカラー写真はしばしば強い生々しさを感じさせるものがある。それは、カメラが私たちの見ている現実を寸分違わず写しとっているようでいて、実は私たちの目では認識できない解像度でものを写しとっている、つまり見えていないはずのところまで詳細に見えてしまっているために気持ち悪さを感じているのである。一方で彼のカラー写真は、上り坂の路地を写した写真からタイヤが石畳の上を滑る鈍い音まで聞こえてくるようなリアルさを持ちながらがらも、人の目を通した解像度を残している。

タイムスリップのように自分を過去に飛ばすのではなく、過去の方を現在に持ってくるというのは、過去のものを見るときに必要な対峙のしかたでありながら、ほとんどの人が持ち合わせていないものであるように思われる。大学院の研究室で主に近世の作品を対象とした学術調査をしたときにもそれは如実に感じられた。江戸時代のものを扱うというだけで身構えていたものの、実際に開けてみると思っていたよりも古ぼけていたり色褪せていたりしておらず、手の届かない遠いものだと思っていた過去がタイムカプセルのように現在に顕現したように思えた。(と、一年半前の自分は言っているが、遠い過去の時代のものを扱うことに慣れた今の自分から見ると、全面的な同意はできない。良くも悪くも初学者が抱いたやや大袈裟な感動である。当時の衝撃は忘れられないが、今はもう当たり前に備わってしまった。)

彼の写真に話を戻すと、展示のあと、私はポストカードと写真集を買って帰った。

買ってきたポストカードのうちに、ロンシャン競馬場での二人の人物を写した一枚がある。展示で一見してからずっと、あまりに心をとらえる特別な一枚である。特別であるので、マット付きの額に入れて飾ろうとしたが、途端になぜか生身で見た時の輝きを失ってしまうので悩んでいたところ、写真集に収録された文章に、興味深い記述があった。

『サンニュース』時代に、木村伊兵衛の撮った写真は、ライカでも6×6でも、画面いっぱい寸分の隙もなくて、トリミングができず、レイアウトに苦労したが、このようなカンのよさは、いわば、木村伊兵衛の天性だから、これまた誰にでも真似のできるものではない。

「下町情緒の名人芸」名取洋之助

当たり前のことだが、ポストカードよりも狭く枠取られたマットの窓に、フルサイズで印刷されたカードを配置すると、画面の端がわずかに見えなくなってしまう。上の文章で言うところの「トリミング」は、このわずか数ミリの差においても有効だったということだろう。


映画好きの知り合いに言わせると「タランティーノの作品が好きな人は、ストーリーよりも「このシーンがかっこいい、絵になる」と、瞬間を切り取るような見方をしている」らしい。彼が脚本を書いているトゥルー・ロマンスという映画が好きだと話したときにそう言われた。惹かれた瞬間を切り集めて反芻しながら生きている自分にとって、写真というものに惹かれたのはある意味必然のことだったのかもしれない。

(この文章は一年以上下書きのまま眠っていました。2023年の9月、ようやく公開に至ります。)

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