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作家たちの自筆原稿

いつもは自宅からパソコンで執筆をしているのですが、今回は趣向を変えて(ついでに文体も変えて)、出先からスマホで書いてみようと思います。

作家たちの自筆原稿というテーマですが、これは今回訪れた北海道立文学館の常設展がきっかけになっています。同館の常設展示室には入ってすぐのところに沢山の抽斗を持った棚があり、その一つ一つに北海道ゆかりの作家・作品の自筆原稿が入っているのを引き出して見ることができます。

まず私の目に止まったのは遠藤周作の棚でした。彼の代表作の一つとも言える「沈黙」は私にとって極めて重要な作品であるにも関わらず、彼の自筆を見るのはこれが初めてでした。「沈黙」は、好きな本だとか勧めたい本だとか、どんなテーマにせよ本を選べと言われれば必ずその選択に入ってくるほどの存在でしたから、作品が持つ存在感と同じほどの期待を彼の自筆にも寄せていました。しかし原稿にあったのは意外にも幼なさを感じさせる字の並びであり、薄い黄緑の専用紙には丁寧に連絡先までが印刷されていました。ひらがなの乱れ方は他の近代の作家と同じですが、どうにも漢字の乱れ方に子供っぽさを感じさせる原因があるようです。筆を続けて書くことはせず、字の一画一画を独立させてしっかりと書いているのを見ると、溢れ出るものを書き留めるというよりも、落ち着いて考えたことを文字にする人という印象を受けます。筆記具は万年筆ではなく鉛筆でありました。消して書き直すことのできる鉛筆であるのに、ぐちゃぐちゃと塗り潰して推敲を重ねているのを見て、そういえば消しゴムを使う作家などいたのだろうかと思いました。文豪たちがちまちまと消しゴムを使って執筆する姿はあまり想像できません。そもそも消しゴムとは新しい文房具なのかもしれません。

次に目を惹いたのは高村光太郎のもので、彼の原稿にはいかにも近代作家らしいやや大胆な筆跡が太めの万年筆で残されていました。彼の場合は専用紙は使っていなかったようですが、チャコールの絶妙なインク色にこだわりを感じます。

他の作家たちの原稿も見てみると、行間の余白が無くマス目のみになっているものや、魚尾の代わりに中央の罫線だけが太くなっているものなど、多彩な原稿用紙があるのがわかります。はっきりとした色のマス目を好む者、淡い目立たぬ色の罫線にあまりマス目を気にせず書く者……原稿用紙一枚見るだけでも、紙の上に作家の手や筆の運びが立ち現れてくるようです。

自筆原稿はその先の展示ケースの中にも様々な作家のものが展示されてありました。武者小路実篤は、その名前と風貌の貫禄とは裏腹にこじんまりとした小さな字を書く人でした。石川啄木は全ての漢字に細かくふりがなを振る人であり、フォントのような印象的な文字が並ぶその原稿は、全体で一つのグラフィックのようでした。小林多喜二の原稿にはひときわ激しい推敲の跡がありました。船山薫という人の使っていた専用紙には「船山 薫用箋」との銘があり、用箋という表記を初めて目にしました。

近代作家たちの自筆原稿はこれまでにもいくつか見たことがありましたが、思考のメモである原稿段階からいわゆる達筆と言える字を書く人はいないように感じていました。文豪という響きには教科書体のような達筆を想像してしまいます。しかし彼らの書く字は皆筆っぽい続け字で同じような乱れ方をしており、この癖にはどこか既視感を覚えます。その正体が祖父の書く字であることに気が付いたのはこの日でした。

これはくずし字(変体仮名)を学ぶようになってから気が付いたことですが、この癖はくずし字の字母を踏まえて見ると非常に理にかなったものです。私たちが今の時代に模範として見る楷書よりも、字母の名残がはっきりと分かります。それが独特の癖として一定の時代の人々の字に反映されているのでしょう。現行の五十音表では採用されていない仮名の表記が自然に残る作家も少なくありません。これは戦後までご存命であった比較的後ろの時代の近代作家に関してもそうです。そう考えて見ると、私たちが当たり前に感じていた現行の字の表記というのはまだ歴史が浅く、くずし字の字母を通してみるとまた新しく見えてくる部分があるのだろうと感じました。

誤字脱字の訂正や推敲をしたいところですが、出先から帰る前に書き上げたいと思いましたので、取り急ぎここで文を終えます。これからも作家たちの自筆原稿を見ることを一つの楽しみにしていこうかと思います。次は宮沢賢治や坂口安吾などの原稿を見てみたいですね。

新千歳から成田へ出発する飛行機の機内より

(追記:改行ミスなどがあまりに恥ずかしかったので最低限修正しました。)

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