日英の言語における主体設定の比較〜芥川龍之介『蜘蛛の糸』を例に〜

大学生になりたての頃授業で書いた考察からそのまま抜粋、転載。

【概要】

《「わたしは公園に行き、そこに野良犬がいるのを発見した。」なら主語である「わたし」の一連の動作として納得のいくドイツ語におさまるが、これでは、無数の偶然からなる渦に巻き込まれて、かたちのない期待やかすかな驚きを味わいながら、次に何が起こるかわからないけれど多少のんびりかまえている、という感じが出ない。もしかしたら野良犬はわたしが来るのを知っていて公園にいたのかもしれない。また、そこまで行かなくても、いろいろな出来事とか気持ちとかの間にはやっぱり何か繋がりがあるという気がしてならない。》多和田葉子(2013)「言葉と歩く日記」 一月十三日より

上に引用した文章は、1月13日の日記の中で筆者が日本語の「と」で結ばれた文章の曖昧な関係性を外国語で表現することの難しさについて述べた部分である。その例としてあげられているのは「公園に行くと、野良犬がいた。」という文章であるが、ここで問題となるのは「公園に行った」という事実と「野良犬がいた」という事実の関係性である。日本語を母語とする私たちがこの文章を読んだ時に受ける印象は、「なんとなく公園に行ったら、たまたまそこに野良犬がいた。」という偶然性であろう。しかしこれを外国語、本文ではドイツ語で表現しようとすると、「私」という主語が設定されることで文章の視点が固定され、「公園に行った→野良犬がいるのを見つけた」という時系列の中で二つの事実の関係性が捉えられることになる。また、ここで改めて日本語の文章を見直してみると、日本語の文章の読者の視点は公園に行った「わたし」であり、公園に行ったわたしを眺める「神の視点的第三者」でもあり、非常に曖昧である。
先週の発表で例として取り上げられていた川端康成の「雪国」の冒頭を再び取り上げてみよう。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」私はこの文章を読む時、電車に乗って暗いトンネルの中を揺られる長旅の中、突如として飛び込んで来る雪の白さが臨場感を持って再生される。この時、視点は主人公の一人称視点であるような、電車に座る主人公の背中をぼんやりと眺める神の視点であるような、曖昧なものである。しかし、その英訳の主語は「The train」、つまり電車の方であり、トンネルから白銀の世界へ勢いよく登場して来る電車の姿が幅広い視野を持って想像される。この様に、翻訳を生業とする人間による翻訳ですら二つの言語から受ける印象が乖離している例があることから、和文の英訳、そして英文の和訳を比較することで、文章の主語と、文章の読者の視点について考えてみることした。本レポートでは、文章の主語と文章の読者の視点を含めて「主体」として扱う。

【和文とその英訳を比較してみる】

同じ物事について記述した言語の文章を比較するために、今回は原作を知っている人が多いであろう芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と、その英訳を取り上げてみる。

原文《こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていたカンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上がっているものがあると思いますと、それは恐ろしい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。》芥川龍之介(大正7年)『蜘蛛の糸』より

第一文では読者の視点は語り手の視点を借りており、地獄の池で苦しむカンダタの姿を客観的に眺めている。しかし第二文ではカンダタの視点に移行しており、ぼんやりと映る影に目を凝らすと現れた針山の印象がリアルに伝わって来る。この文章では主語が明確にされてはいないものの、文章に誘導されるように私たち読者は自然とその視点を移行させている。この流動的な視点の移動が、多和田が日記で述べていたような文章同士の微妙な「繋がり」を生み出しているのではないだろうか。

英訳《In the Pool of Blood down at the very bottom of Hell, Kandata was found to be bobbing up-and-down with the other sinners. Indeed, at the bottom of Hell, wherever one might look, it was as dark as night, and nothing else was to be seen but sporadic gleaming of pointed needles jutting sharply from the ghostly Mountain of Needles.》translated by Takashi Kojima, "The spider’s thread", 1961

一方英訳では、地獄の池で苦しむ姿を語り手に観察されているカンダタ、夜のように暗い地獄の底、かすかに見えてくる針山、と言ったように一つ一つの事実が説明的に述べられている。この時、述べられている事実同士の関係性はあまり表現されていない。印象的なのは「(主語)が〜である。」「(主語)が〜する。」などのように主語として設定された物がフォーカスされ、文章自体が主体となって持つ視点があまり意識されていない点である。第一文のカンダタの描写を例にとってみると、まずカンダタという人物の設定が前提となり、その人が語り手に観察されているという構造をさらにまた文章が第三者の説明的に述べている。

二つの文章を比較してみると、文字化された言語の扱い方が日本語と英語で異なることがわかる。日本語においては文章そのものが視点を持っており、その視点は読者の視点のフレームに直結している。つまり文章と読者が一体化しているのである。読者は文章に誘導されるまま、登場人物や語り手の思考に没入していく。英語においては、主語として設定した対象を描写することに重点が置かれており、読者は文章そのものから何かを感じ取るというよりも、文章における説明から自らの中で忠実なイメージを作り出し、そのイメージの中で読者自身がフレームを設定しているように思われる。文章自体の視点が、文章が描写する対象の視点と混ざり合うこともある日本語の文章に対して、英語の文章では描写する対象との線引きが極めてはっきりしており、文章の主人公はもちろん語り手とすら完全に分離した第三者としての視点を持っている。
こうした違いが存在する証拠はそれぞれの言語の文法の中にも見られる。例えば英語ではbe動詞や一般動詞において主語によって形が変化する。日本語においてはそうした主語による明確な変化を規定されたものはない。「〜わよ。」「〜だろ。」など、主語の性別や年齢を推測できるような語尾変化などは見られるが、それを使うかどうかは話し手に委ねられており、何よりそうした「らしさ」を含まない言葉遣いも存在するのである。思考が先か、言語が先かという論争は簡単に片付けることができないが、思考プロセスが言語に反映されていると仮定したならば、日本語話者の思考プロセスにおいては主語の設定という概念が薄かったのだと考えられる。

【感想・まとめ】

普段から原文と翻訳との乖離について気になっていたこともあり、日記で微妙なニュアンスの訳出が非常に困難であるとの記述をみてこのテーマにしようと軽い気持ちで設定したテーマであったが、自らの手で原文と翻訳を比較してみて初めて「読者の視点」や「文章の視点」と言った新しい観点に気づくことができたように思う。
今回の考察を踏まえると、日本語における代名詞の豊富さについても納得がいく。英語においては文章の描写は説明的であり、読者が没入する余地がないことからheやitと言った数種類の代名詞で事足りるのだ。一方日本語では文字化された文章が読者の思考と一致しているため、同じことを表していても、私、俺、我輩などと多様な表現が文章でも見られるのかもしれない。
先週の発表で日本語の主語について取り上げているものがあったが、その問題も文章や読者の視点といった観点から考察してみると、主語や視点が曖昧で流動的である日本語において明確に主語として規定されるものの存在が薄かったことも納得できる。
西洋美術と比較した時の日本美術の立体感・遠近感のなさを解説した文章の中で、日本美術において立体感や遠近感、リアリティがあまり見られないのは西洋の描画技法に対する技術の遅れからそう言った表現ができなかったというよりも、西洋文化圏の人々と日本人とではそもそも対象を視覚で捉える見方そのものが違ったためである、という意見を目にしたことがある。原作と翻訳とのニュアンスの乖離も、そもそも対象の捉え方が異なる二つの言語で同じものを表現しようとすることの困難さから来ているのではないだろうか。

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