スケール感と実物性ー複製の可能性

大塚国際美術館にて鑑賞した陶板名画について、スケール感の再現が私にとって物質的な要素を超えた「体験としての記憶」をもたらしたという話。

スケール感と実物性

大塚国際美術館といえば陶板名画で有名な美術館である。美術館でありながらオリジナルの原画を所有せず、世界の名画の陶板複製だけでコレクションが構成されている特徴を持つ。

複製画のメリットとしてこれまで聞いたことがあったのは、複製であるゆえに触れることも可能なほど(現在はコロナの影響で接触は禁止)近くで作品を鑑賞することができることなど、あくまで学術的な鑑賞・観察に関してのものであった。

確かに、建築物の空間ごと作品が再現された古代・中世の環境展示(古代遺跡や教会などの壁画を環境空間ごとそのまま再現した立体展示のこと)は、空間内での位置関係やその配置に重要な意味を持つビザンティンの聖堂装飾プログラムなどをはじめとして、学術的に大きな意味を持つ展示である。一方で、細部の鑑賞が可能であることについては、通常の複製画(個人観賞用の廉価版は除く)が素材をオリジナルと一にするのに対して、陶板名画はその名の通り陶器の板に印刷することで成立しているため、油絵の具の盛り上がりやモザイクタイルの凹凸といったマチエールまでは再現されていない。そういった意味でも、個人的にキャプションの基本情報に描画技法と素材が含まれていないのがかなり気になった。陶板名画は、色と(描画の)造形については高い再現性を誇るものの、絵肌を含めた近接時の立体性は失われている。二次元の枠で語られる絵画であっても、間近で観察してみるとさらりとした質感の水墨画とぼってりとした油絵の具を重ねた油彩画とでは物理的な立体感が異なるように、そのわずかな差が作品にとって実は重要な存在感を持っているのである。こうした点で、陶板名画は「何が描かれているか」の観察には向くが、「どう描かれているか」「どう見えるか」の細部の観察には向かないように感じる。

ウォルター・ベンヤミンは複製技術時代にオリジナルから失われる権威をアウラと称したが、私は陶板名画の展示を見て、学術的要素よりもむしろ、オリジナル以外では再現し得ないはずのアウラ的な権威的要素の方を感じ取ったのであった。陶板名画はもちろん複製であるから私の感じたそれは厳密にはアウラではないのだが、実物性あるいは現物性というべきか、物質的な要素を超えた権威的・象徴的な要素までがそこに再現されているのを感じたのである。しかも、それを感じたのは祭壇画をはじめとする宗教の上での美術作品であった。

中でも特に地下二階の祭壇画がまとめて展示されてあった部屋は圧巻であった。どれも図版では何度も見ていた作品であるにもかかわらず、そこにあったものはこれまで見ていた美術史上の学術的な作品としてではなく、完全に宗教的な信仰の道具としての祭壇画であった。やや高い台座の上で大きく両翼のパネルを開いたその姿に正面から対峙すると、あまりのスケール感に飲み込まれそうな錯覚を覚える。これはフランダースの犬で有名なルーベンスの祭壇画の展示においても同様であった。図版に載っているサイズはあくまで拡大縮小されたものであり、私たちはその実際のサイズ感を無意識に頭の中で補完しているとはいえ、この祭壇画のスケール感は想像をはるかに超えるものであった。

美術史を学んでいるもの性として、作品をみるとすぐにその背景や技法の学術的な分析が始まってしまい、感性の上での鑑賞が損なわれてしまいがちなものであるが、この祭壇画においては純粋な感動と信仰としての説得力がその感想のほとんどを占めた。実際、祭壇画に何が描かれていたかということはほとんど覚えておらず、ただある種の宗教的とも言える体験としての記憶だけが残っている。

この「体験としての記憶」が複製品の上でもなされたのは予想外のことであった。私がこれまで「体験としての記憶」を得たのは、誰もいない東寺の講堂で大日如来の目線の先に立ったときくらいのものである。この時は、東京に東寺の仏像群が企画展で来ていたにもかかわらず、東寺の立体曼荼羅はあの場所で見なければ意味がないとあえて避けてまで現地に見に行ったものであった。オリジナルですら環境によってアウラが揺らぐのに、まして複製品がそうした物質の要素を超越したアウラ的な権威・象徴的な要素を持つはずがないと思っていたのである。先ほど細部の観察には欠点があると述べた陶板名画であるが、逆に細部を観察しない場合においては、そのスケール感の再現において大きな可能性を持ったものであると感じる。

「アウラの凋落」という言葉がありつつも、特に美術の分野において、私たちはいまだにアウラの権威性から離れられないでいる。ある作品の展示を見たときに、それがオリジナルであれば興奮し、複製であれば少しがっかりするのがほとんどの人の反応であるだろうが、そこにあるオリジナルと複製を分かつものは一体何なのであろうか。最近ではデジタルのクリプト・アートの分野で、NFTの技術がアウラの権威性を担保するものになっている。アナログの作品を考えると、例えば複製品に「オリジナル」とのキャプションがついていても、よほどの専門家でもない限りは精巧な複製とオリジナルとを区別することができないだろう。ほとんどの鑑賞者にとって、目の前の作品が持つオリジナルとしてのアウラを担保してくれるのは、また権威としての美術史という学問なのである。

写真をはじめとした複製技術は、目の前にあるものを物理的に寸分違わず写し取るということしかできない。それ以上のことはできないが、シュルレアリスムにおけるオートマティスムではむしろ、それがいわば「人為の介在しない目」として、その制限された機能を期待されて用いられたものであった。こうした複製技術は、特に美術の絵画作品においては、複製技術そのものが物理的に複製したものを、スケール感という要素を伴わせることによって、物理的な要素を超えた一種アウラ的な、オリジナルが持つ権威的・象徴的な要素を再現する可能性を持っているのではないかと感じた。この権威的・象徴的な要素について、私は勝手に実物性と呼んでいる。

過小評価のボッティチェリ、過大評価のドラクロワ

以下は作品展示を見ての私の個人的な感想になる。

陶板名画によってオリジナルのスケールで作品を見たのち、図版を見ていた時と自分の中で評価が変わったものがあった。まず、図版で見たと比べて評価が上がったのがボッティチェリである。

そもそも、テンペラ画は図版で見るよりも確実に実物の方に魅力があるように感じる。ロンドン・ナショナルギャラリー展でテンペラ画を見たときもそうだが、図版ではその良さが全く分からず嫌いでさえあったのが、実物をみると油彩ともフレスコとも違うそのなんとも言えぬ筆の細かさに釘付けになってしまった。特にボッティチェリの〈ヴィーナスの誕生〉は、図版から想像されるよりもかなり大きい作品である。学習机に収まるほどの大きさかと思っていたのが、実際には布団ほどの大きさがあった。金のハイライトの使い方が絶妙で、これほどの大画面の中に描かれている全てが、本の挿絵にある小画面と同じような精緻さを持って描かれている。このスケール感の中にこの精緻さがあるのが最大の魅力であるにも関わらず、図版では布団ほどの大きさを手の中に収まるサイズに縮小しているのだから、細かすぎてその魅力は全く伝わっておらず、損をしているのだ。

一方で、図版で見たときと比べて評価が下がったのがドラクロワをはじめとする近代の油彩画である。

ドラクロワについては〈民衆を導く自由の女神〉が展示されていたが、その大画面ぶりは予想通りであったものの、近づいて見てみてみると、思ったよりもその筆致が粗い点に目がいく。近代の油彩画は図版で見るとどれも綺麗な印象を受けるのだが、実際にはその画面の大きさもあってか、若干がっかりしてしまうようなものであった。こちらは縮小によって粗が目立たなくなり、なんとなくいい感じに見えるという得をしている例だ。

そのほか

祭壇画の「体験としての記憶」を述べた一方で、オリジナルを見た時に得た「体験としての記憶」を得られなかったものもある。

マーク・ロスコの作品がその例で、DIC川村記念美術館のロスコルームにてオリジナルの作品を鑑賞した際には、一種の宗教的とも言える体験として残った彼の作品が、大塚国際美術館の複製においては全くその体験が得られなかった。もちろん、ロスコの作品の展示に特化したロスコルームの展示環境と、様々な作品が所狭しと並ぶ大塚国際美術館での展示環境とでは異なる部分も大きいとは思うが、これはやはりオリジナルには叶わないと感じた例であった。

もう一つ、祭壇画の中で唯一「体験としての記憶」を得られなかったのがエル・グレコの祭壇画である。そもそも、エル・グレコの存在とその作品自体は知っていたが、どうしても彼の画風には俗っぽいものを感じて、宗教体験と結びつくような祭壇画にふさわしいようには思えない。実際、祭壇画の中でも彼のものはかなり大型であったが、それでも彼の絵が祭壇画のなかに収められているのが不思議で、納得できなかった。

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