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いけ好かない作品を見に行こう

大学2年の時、東アジアの美術工芸品を紹介する講義を友人と一緒に受けていたことがある。出てくるものには陶磁器や銀食器が含まれていたため、授業後にはよく「これはオシャレ」とか「これ家に欲しい」などといって感想を言い合うのが常であった。

ある日のこと、陶磁器を紹介する回の中で「曜変天目茶碗」が紹介された。曜変天目茶碗として明確に現存するものは世界で3つ(全て日本)しかなく、その文様を生み出す技術が謎に包まれ現在でも再現できていないことからも、その3点は全て国宝に指定されている。「曜変天目茶碗」の名称は「天目茶碗」という茶碗の種類に、文様の種別である「曜変」を冠したものであり、他にも禾目(のぎめ)や油滴(ゆてき)、灰被(はいかつぎ)などの種類が存在している。

この曜変天目を授業で見たときには「えぇ〜何か、ダサいよな……」というのが正直な感想であった。いかにも珍品を狙ったような曜変の独特の発色は、私にとって下品に見え、分かり易いのが面白くない、いけ好かないと感じたのである。嫌いというよりは嘲笑に近い感であった。(ちなみに曜変の技術として、この文様を狙って出すことが出来たのか、それとも偶然にしか発生しない文様であったのかは解明されていないため、実際に珍品を狙ってこの発色を出したかどうかは分からない。)"分かりにくい魅力"フェチの私には、一緒に紹介されていた禾目や油滴の方が圧倒的に好みであった。(ちなみに禾目、油滴、灰被などの私の推し天目は東京国立博物館の東洋館で見ることができます……!宣伝。)

曜変天目は現存する3点が全て国宝に指定されていると前述したが、これらはそれぞれ静嘉堂文庫美術館、藤田美術館、龍光院に収蔵されている。静嘉堂文庫のものがもっとも色が明るく鮮やかで、いかにも「玉虫色」という発色の仕方をしている。それに比べると藤田美術館と龍光院のものはもう少し落ち着いており、黒〜青の発色の中に光の加減で玉虫色の筋が現れる。私が特に気に入らなかったのが静嘉堂文庫のものであり、友人には「藤田と龍光院はまだ許せる。けど静嘉堂はちょっと……(苦笑)」などと話していた。

私があまりにも曜変天目へのアンチをあらわにしたからか、友人が面白がって「じゃあいつか一緒に実物を見に行こうよ」と提案をしてきた。好きな作品を見に行くということはあっても、好きでない作品を見に行くということはあまりない。実物を見れば良さがわかるかもしれないという思いもあったが、正直に言うと「どんなもんか見てみるか笑」と小馬鹿にするような気持ちが強かったと思う。

この時の提案が実現したのはそれから数年を挟んだ今年のことであった。静嘉堂文庫美術館が丸の内への移転に伴う展示として企画した「旅立ちの美術」にて曜変天目茶碗が出品されており、これの広告をInstagramで目にした友人が以前の話を思い出して私に声をかけてくれたのだった。

結論から言うと、実物を見た感想は「写真よりは良い」ということだった。私の気に入らなかった玉虫色の発色は、写真で見るよりもけばけばしくなく、光の具合によって変化する繊細さを持っていた。「小椀の中の大宇宙」との表現は相応しいように思う。360度その姿を見ることができるガラスケースに入れられていたのがありがたい。曜変の最大の特徴である斑の文様が現れるのは茶碗の内側の部分だけであることから、写真として紹介されるときにはどうしても器内を真上から丸く写したアングルになる。しかし、茶碗そのものとして対峙するときには器の外側の部分も視界に入ることになり、斑はそれほど主張しなくなる。また、玉虫の色も角度によって強くなったり弱くなったりと変化することから、私が写真で見た曜変天目を気に入らなかったのは、アングルも含めて曜変天目の一番主張の強い姿が写真として写し取られてしまっていたのが原因だろうと感じた。

それでもやはり、強い感情は私の中には起こらなかった。茶碗であるので一応はこれでお茶をいただくことが想定されるが、ここにお茶を入れてそれが美味しそうに見えるだろうか……と疑問に感じてしまった。もしかすると、もっと暗いところで見ると玉虫の加減が落ち着いてちょうど良いものになるのかもしれない。ただ、美術館の展示で見るかぎりでは私の評価は変わらなかった。

曜変天目が現在国宝に指定されているのには、単純に「美しいから」と言う主観的な評価だけではなく、現在では再現不可能な技術で制作されていることや、その伝来の過程に文化財としての学術的価値があるのだと考えられる。美術史上で「名画」「優品」とされている作品も、ある価値体系に基づいて美術的である=美しいという評価が下されたからということの他に、ある時代の様式の発生を決定づけたという事実や、技術としての巧みさなど、客観的事実や美術史上での学術的価値が根拠になっているはずだ。

「美術」とは難しい言葉である。日本語では「美術」の「美」の字に引っ張られ、美術品とは「美しい」ものであるはずだとして、そこにあるはずの「美しさ」らしきものを作品のうちに探して理解しなければならないという強迫観念に捉われてしまいがちである。そもそも「美術」という単語は明治になって"Art"の訳語として生み出された単語/概念である。それまでの日本には美術という概念そのものがなかったのである。ここで、私たちが今日「美術」「アート」といって思い浮かべる評価基準が西洋近代的な価値体系に基付くことに留意しなければならない。この価値体系に揺さぶりをかけようとした一つの例がデュシャンの《泉》であった。

つまりは「美術品」として提示される対象に「美しさ」を感じられなかったとしても、何ら問題はないということなのだ。「美」の文字を漢語林でひけば、美しいの他に美味しい・優れているといった意味も出てくる。西洋の美学の世界を覗いても、音楽を含む芸術の領域が目指したものは時代によって様々で、神の姿を映した人間の肉体にそれを求めた時代もあれば、美しいものを美しいと感じる精神性の表出にそれを求めた時代もある。「無限」や「安全が保障された危険」といったものに崇高さを求めた時代もあった。美術、特に美術史で扱われる対象はいわば視覚イメージを以って人々の興味を集めたものであり、その興味の内容には美しさといったポジティブな感想だけでなく奇異さや不快さといったネガティブにもなりうる感想も含まれている。ジャポニスムが純粋な礼賛や評価だけでなく異国としての日本の文化への視線を含んでいたことはこれまでに指摘されていることである。

私はもともと美術史の中でも日本美術史をやろうと決めて大学に入学した。だが、自分の専門分野を改めて決める際に、敢えて自分の好きでない、苦手な分野の作品の展示をたくさん見にいった。その数は自分の好きなものを見に行くよりも多かったように思う。この作業を通して、写真で見たときには苦手であったテンペラ画のように実物を見てその魅力を理解した作品もあれば、やまと絵のようにやはりあまり面白くないな……と評価の変わらない作品もあった。この時に、なぜ好きか/嫌いかという理由を挙げて、今まで見てきた様々な作品の好き/嫌いな理由をまとめて見た時に、そこにある共通項がなんであるのかを見出そうとした。このようにして、苦手な作品の苦手なポイント、好きな作品の好きなポイントが事例として自分の中に蓄積されていくことで、帰納的に自分の好きな領域や要素といったものが明らかになっていったのである。

少し道が逸れてお堅い話になってしまったが、美術品とされるものであっても、自分にとっては美しくも良くもなんとも感じられない作品である可能性があるということを言いたかった。好きの反対は無関心とは良く言ったもので、嫌いという感情はおろか何の感想も浮かばない作品に出会うこともある。これに関しては本当に興味のない領域ということになるので、苦手な作品を見続けるよりも苦痛になるかもしれない。美大を卒業した知人が、授業で興味のない作品を見続けなければならないのが一番の苦痛であったと話していた。

好きな作品を見にいくのが楽しいのはもちろん、苦手な作品やいけ好かない作品を見にいくのも意外に面白いものだ。好きでないものに入場料を払うのは気が進まないだろうが、特に学生は学割の効くうちにこれをやるのをお薦めしたい。

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