院生所感(信用について) 2022.4.19

院の授業が始まって明日でやっと1週間が経つ。教授よりも院生の方が少ないなんて贅沢な環境のため、中には教授とマンツーマン、二人で楽しく歓談して終わる授業もあった。学部の時には大教室で豆つぶほどに小さくなった教授の話をやっとのこと聞くような状況もあったから、教授という存在を毎週100分間自分のためだけに独り占めできるのは、非常に有難いことである。

自分が他大の院に進んだのには、そこに自分の研究分野の第一人者である教授がいるからというだけでなく、学部の時と違う領域から研究対象にアプローチするためでもあった。美術史という人文系学問を拠り所としてきたのが、院の研究科は文理で言えばなんと理系である。生物、化学といった理系学問に加えて、マーケティングといった経済分野まで顔を出してきて、私の本領の人文はカリキュラムの中で肩身が狭い。それでも、学部生の時には曖昧な影としてしか見えなかった部分が、新しい分野のアプローチを経て徐々に明解な姿を見せ始め、学問への意欲は益々高まるばかりである。

学問や研究をやっていると「これで生きさせてくれ」「研究だけをやっていたい、やらせてくれ」という気持ちになる。学問と向き合っている瞬間だけに、自分の心に高揚と安寧がもたらされる。

自分は長らく、他人のことを根底のところで信用していない、できないのだと思っていた。だが、本当のところ一番信用していないのは自分自身のことかもしれないと、学問と向き合う時間の中で思った。

学部時代の卒論を研究室の教授や助手に読んでもらった時に、同じようなことを違う表現で何度も書いていると指摘されたことがある。これは自分でも自覚していたことで、普段から特に文面で何かを記そうとした時に、自分の考えていることが本当に相手に伝わりきっているか不安で、取りこぼしのないように表現を重ねてしまうのだ。私はこれを、受け取り手である他人のことを自分がどこまでも信用していないからだと思っていた。

学問という、ある程度実証性の担保された秩序に自分が身を置きたがるのは、当然のことかもしれない。そこには他人を信用するための口実が必ず記されているし、研究という実証性を示すプロセスを踏めば、自分自身を信用することも肯定される。研究とは、自分の考えていることを正当化する口実を集めてくる作業でもある。

自分が同じようなことを何度も繰り返し言ってしまうのは、自分が何においても口実を重ねてその正当性を補強しようとしてしまうのと同じことかもしれない。逆に口実を得てしまったがために自分の望まない方へ進む流れを止められないこともある。口実を得られないことは何もできない。自分は強迫されたように毎日必死で口実を探している。何のために?自分がここで滔々と言葉を連ねてしまうのもそういうことだろう。

研究から離れた日常の時間でも、ある種信仰のように組み込まれたこの作業から逃れることはできない。自分がいつか世界のさまざまを口実なしに信用できるようになるなんて時が来れば、それは同時に、研究者としての自分を作った一つの才能みたいなものが期限を迎える時なのかもしれない。

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