夜と地続きの朝は絶望でしかない。

夜と地続きの朝は絶望でしかない。

いつだったか、本当に怖いのは夜ではなくて昼間に起こる怪奇だという話を目にしたことがある。夜の怖さの根源は大抵暗さにあるから、とりあえず明るいところへ行けばいいのだという逃げ道がある。だが、昼間にドッペルゲンガーを見でもしたら、元々明るいところで起こっている怪奇から逃れるにはどうしたらよいのか分からないということだ。

一昨年の夏に人生で初めてといっていいほど大きな精神と身体の不調を経験してから、自分は逃避行動としての「眠り」に大きく依存するようになった。起きている間中ずっと思考を侵してくる不安から逃れたくて、何も考えなくていいように昼間でも布団で目を閉じた。親の目を気にせず眠れる夜が毎日待ち遠しかった。そうでなくても次の日に楽しみなことがある夜は、早くお風呂やご飯を済ませて寝てしまうことで、今日一日を強制的に終わらせるというのをよくやってしまう。眠りは私にとって全てを終わらせることのできる安易な救いであった。

だが、眠りは昼間に使いすぎると夜に使えなくなるという欠点も持ち合わせている。不眠という言葉から縁遠い生活をしてきた自分は、この時期に初めて眠れずに朝がやってくるということの絶望を理解した。昼間の怪奇が明るさという逃げ道を持たないように、朝も眠りという救いから一番遠いところにあるものである。

昔から明け方の白み始めた空は嫌いだった。中高生の頃、テストの前日にやっとのことで勉強を終わらせて電気を消すと、カーテンの隙間から仄白い光が漏れているのを見てすごく嫌な気持ちになるのだった。

もちろん早朝の気持ちよさみたいなものを知らないわけではない。だがそれは眠りを経た目覚めの朝だけにもたらされるものであり、眠れない夜に地続きでやってきた朝は、次の夜という終わりが遥か遠くにある絶望を突きつけてくるものである。

宮台真司があるインタビュー(記事末記載)でくるりの「ワールズ・エンド・スーパーノヴァ」とフィッシュマンズの『空中キャンプ』から『宇宙・日本・世田谷』への流れを挙げて朝の絶望という感覚に触れているのを読んだ時、自分の感じてきたことがうまく言語化されたように感じたのを覚えている。

彼は「ワールズ・エンド・スーパーノヴァ」の「どこまでもいける」という歌詞はどこにもいけないことの反語表現だと書いていたが、そうなのである。どこまでもいける人間は、わざわざ「どこまでもいける」なんて言ったりはしない。

夜を終わらせられないままやってきてしまった朝を見ると「どこまでもいける」と言わされるような感覚になる。夜と地続きの朝は絶望を手渡しにやってくるのだ。

自分は深夜の空気というものが大好きで、よく無駄に夜更かしして自室の窓から人のいない裏通りを眺めてみたりするというのをやっていた。ロフトベッドに寝ころんで、すぐ横の窓から隣家の屋根との隙間に見える月をぼーっと眺めるのも好きだった。

いつからか、深夜の空気の中で過ごすということよりも続いてやってくる朝の絶望に耐えられなくなって、夜通し起きている、みたいなことは避けるようになってしまった。きっともうこういう時間の過ごし方をすることはない。大学生活が終わるとともに、色々なものが過ぎた思い出になっていくようで。

(宮台真司インタビュー:『崩壊を加速させよ』で映画批評の新たな試みに至るまで https://realsound.jp/movie/2021/05/post-756745.html 2021.5.8)

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