物書きの夢。国会図書館。

小さい頃、物書きになりたいと思っていたことがある。小学校の卒業文集やなんかの「将来の夢は?」という質問には毎回「学芸員」と答えていたのだが、それとはまた別で物書きという夢がうっすらと自分の中にずっとあった。

小さい頃の自分はまさに本の虫だった。自分で文章を書くのも好きで、友人に希望された設定の物語を書いたり、自分で考えた話をノートにちまちま書いては友人に貸してみせるということをよくやっていた。自分が物書きに向かないと気がついたのは確か中学の頃で、好きな作家の文体の癖やよく一緒にいる友人の語彙がすぐに感染ってしまうために、自分の文章を書きたいと思う割に文体が確立しなかった。

そんな自分でも、小学生の頃子ども向けの文章創作のコンテストで受賞し、自分の書いたものが収録作の一つとして本の形になったことがある。作品集の形とはいえ、自分の書いたものが印刷され、本の形で手元に存在するというのは嬉しいことだった。収録作にはそれぞれ絵本作家の方が描きおろしてくれた小さな挿絵がついた。

小説を書くような物書きになりたいという夢は無くなったものの、いつか一冊くらいは自分の名前で出した本が出版される機会があればいいな、とは思っている。研究者をやっている人間が出版社の方から論文を元にした専門書や概説書の出版を持ちかけられる話を意外と多く目の当たりにして、今のうちから淡い期待を持っている。「物書き」という部分も、論文を書くという点である意味叶えられたと言えるのかもしれない。

いつだったか、一万円くらい出せば国立国会図書館の納本制度を使って誰でも自分の書いたものを本の形で国会図書館に未来永劫残せるという話をどこかで見かけた。もし研究者として出版の機会がなくとも、いつかこれをやりたいと思っていた。

最近になって、ふざけてふと自分の名前を国立国会図書館の蔵書サーチにかけてみた。当然何もヒットしないはずなのだが、検索結果には先に書いた小学生の頃の自分の作品が載った作品集がヒットしていた。国会図書館に自分の書いたものを残す、というささやかな夢も、実はだいぶ前に自分の知らないところで達成されていたのだった。

国会図書館に自分の書いたものがあるという事実に喜びながらも、今後自分が研究者として活動していけば、他の人が私の研究成果を参照するために国会図書館でサーチをかけるとその度に幼少期の私の拙い文章が論文と一緒にヒットするのだということに気がついた。あまりにも恥ずかしい。一本目の論文を書く前に結婚でもして改姓すれば、論文と一緒にあれが出てくることもなくなるだろうか。

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