見出し画像

人生で初めて絵を買った。

先日、人生で初めてギャラリーで作品を買った。正方形の黒い画面にケルトの組紐紋が白く抜かれ、内部が赤と青紫のグラデーションで彩られている。この絵を初めて見たのは今年の三月のことで、ちょうどそのころ鶴岡真弓先生の『ケルト/装飾的思考』をはじめとした本でケルトの組紐紋と写本装飾について勉強していたため、飾られていたいくつかの絵の中で目に止まったのだった。

ギャラリーと書いたが、作品と出会ったのはギャラリーカフェと銘打たれたカフェと併設のギャラリーであり、元々はそこでやっていた漆作家の個展とカフェのランチを目当てに行ったのだった。私の目に止まった絵はカフェのスペースの方に飾られていた。白塗りの壁に赤い窓枠を持つ一軒家の一階部分がカフェとギャラリーになっており、入り口に近づくと二階の窓から大きい犬が顔を覗かせた。

三月にこの絵を見たときには学生にはやや躊躇われる数字が値札に並んでいたこともあり、気になりつつもすぐに買うという決断はできなかった。最近になってこの絵のことを思い出し、もう一度見てみたいと言う気持ちになってお店に行ったのだった。

中に入ってみると、以前あの絵がかけられていた壁の窪みには違う作品がかけられていた。ちなみにこの窪みのことはニッチというらしい。ココアを注文しながらそれとなくあの絵のことを尋ねてみた。三月ごろに訪れた際にあの場所にかけてあったこと、このくらいのサイズの正方形の作品であることなどを伝えると、すぐに「あのケルトの組紐紋の……」と理解してくれた。あれは実は一つ売れてしまって、と言われたときに、欲しいものは欲しいと思ったときに買うべきだったと一瞬後悔したのだが、もう一つなら残っていますので持ってきますね、と言葉が続いて安堵した。あの絵の他にもう一つケルトの組紐紋の作品があり、私が見たのはそちらが売れてしまった後にかけ替えられた作品の方だったらしい。値札の表示も画家の名前も覚えていないほど曖昧な記憶だったが、作品のことだけははっきりと覚えていたのでこちらの絵で間違いない。一応値段を改めて聞いてみると、記憶の中の数字よりもやや高く一瞬固まってしまった。対応をしてくれていたオーナーと思しき女性はとても優しく、ココアを飲みながら考えたいという私の申し出を快諾し、机の上にあの絵を置いて見せてくれた。

改めて作品と対峙してみると、三月に見たときに気に入った黒地の背景とグラデーションの淡さの対比がよくわかる。いっぱいに広げた私の掌がすっぽり収まるくらいの大きさなのだが、このサイズ感がなんとも気に入って、自分のものとして部屋に飾りたいと思ってしまった。

作品を眺めていると、先程の女性がギャラリーにあった美術書を持ってきてこれについての話を色々聞かせてくれた。その中には私の読んだ鶴岡先生の書いた本も含まれていた。だが、話を聞いていると「(複雑な)ケルトの組紐紋がどうなっているのか知りたくて色々書き写してみた」「アイルランドに行った時に見たものが」と画家目線の言葉が会話に織り込まれ、私がここのオーナーだと思って話していた女性はもしやこの絵を描いた画家本人なのではないかと思われてきた。その女性が席を外したときに急いで調べてみると、検索結果には今目の前にある作品にサインされたものと同じ名前があった。つまり、この絵は水彩画家である彼女がギャラリーカフェを営みつつそこに展示していた作品のうちの一つだったということだ。ギャラリーとしてその場を借りていたどこかの画家の作品を買うつもりだったのが、画家本人を目の前にしてその手から直接作品をやり取りすることになり、急に緊張してきてしまった。

ここは建物からしてとても素敵なお店なのだが、外観はアイルランドに行ったときに見た白い壁と赤い窓枠の家に憧れてそれベースに作ったものらしい。内装はドイツ風であるが、机やソファなどの家具と内装の一部は建築系出身の彼女が同じく建築系の仕事をしていたご主人と一緒に自分で作ったとのこと。庭の敷石もほとんどプロにやってもらったけれど、ここの部分だけ自分たちでやったら大変でこんな風になってしまった、と話す様子はとても嬉しそうであった。私はお店の前に田園風景の広がるこの立地も気に入っているのだが、そのことを伝えると、アイルランドで感じた目の前をざあっと風の通り抜けるそれと似ているかもしれないと言っていた。しばらくそうして話していると、レインコートを被った別の女性といつも二階からこちらを見ていた犬が奥から出てきた。これから散歩に行くらしい。この女性は今話している画家の女性の娘で、日本画をやっているらしい。もう一人漆作家の娘もいるそうだが、三月に私が見た漆作家の個展は実はこの女性のものだった。

私が研究で主に相手にしている作品は作家が存命でないものがほとんどで、そもそも存命とかいう表現をするような近い時代ではないし、作家の名前が見えないものも多い。だから自分が見てきた作品の傾向としても、自分の作品との向き合い方としても、作家の存在が希薄であった。そういった中で作家という存在と直接関わって作品と向き合う機会は新鮮に感じられ、自分の中でのこの絵に対する思い入れも一層強いものになってしまった。

結局私はこの絵を迎え入れることにした。以前受けたコンテンポラリーアートの授業で、美術史を勉強している人は一度自分でお金を出して作品を買ってみたほうが良いと先生が言っていた。作品を見るだけでなく買うのも勉強だ、自分でお金を出すからこそ買う価値があるかどうか判断するためにシビアに作品を見る事になると。美術史を勉強しているのだから、そのうち自分で気に入った作品を買う機会を持つようになるだろうと思ってはいたが、その初めての機会としてぴったりの経験だったように思う。無事この絵を持ち帰ったものの、学芸員志望の性か、日焼けが怖くて思うように飾る場所を決められない。保存と展示のジレンマがここにもある。今は、早く実家を出てこの絵を素敵に飾れる家に住みたいというのが将来のモチベーションになっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?