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展示メモ3:眠り展@東京国立近代美術館

先月まで竹橋の東近美で開催されていた眠り展。フライヤーのデザインが気になって興味を持ったのが始まりだが、その内容は思っていたよりも素晴らしく、私的2020年度ベスト展示になるかもしれない。

「問い」のスタンス

「眠り展」というシンプルなタイトルながら、その中身は「眠り」を主題とした単なる作品の寄せ集めではなく「眠り」についての問いかけである。各章の章立てと導入文を見るとそれがよくわかる。下にその導入文の一部を引用しておく。

序章 目を閉じて
 眠るためには、まず目を閉じなければならない。目を閉じるということは、自分の外の世界の視覚的な情報を遮断するということである。したがって、目を閉じている人は、他者をみることも自分自身をみることもできない。それに対し、眠り、または目を閉じる人を前にした人は、相手を「一方的に見る」という立ち位置に身を置くことになる。このように考えると、眠ること、あるいは目を閉じることは、いかにも無防備で頼りない行為のように思えるかもしれない。
 ところで、目を閉じることには、自己の内面と静かに向き合うことを導く側面もある。夢が時として、自己の内面を映し出す鏡のような役割を果たすことがあるように、目を閉じることは内面に向き合う機会を与え、また、それを見る人にも、内面を見つめなおすことを促すのである。
第1章 夢かうつつか
 人は、日常的に夢と現実を行き来して生きている。そして時には、夢と現実のはざまにあって、「夢かうつつか」がはっきりしない状態になることもある。
 18世紀スペインの画家ゴヤの版画《理性の眠りは怪物をうむ》(no.1-1)に象徴されるように、眠りの状態にある時私たちは、理性の制御を超えて豊かな想像力を解放し、様々な世界を目にすることがある。
 眠りから新しい想像を生み出そうとしたのは、シュルレアリスム(超現実主義)の芸術家たちも同様であった。彼らは眠り、夢、それに無意識、偶然といった、理性の制御を超えたことを制作の拠り所に様々な想像上の実験を行い、更新の作家たちに多大なる影響を与えた。(略)
 眠りは、夢と現実、あるいは非現実と現実をつなぐものであり、それらの連続性の中に存在する営為なのだ。
第2章 生のかなしみ
 眠りは、死の隠喩ともなる。
 眠りと死の密接な関係を示す例として、小林孝亘が描く枕を取り上げたい(no.2-4)。小林にとって、枕は繰り返し描いてきた重要なモチーフである。一見すると何の変哲もない枕のようだが、そこには枕を使って眠る人物が暗示される。枕を使い、眠りと目覚めという「小さな死」を繰り返すことで、人は次第に死に向かっていくと、作者は言う。枕の絵の中には、いずれ訪れる死が投影されているのである。(略)
第3章 私はただ眠っているわけではない
 眠りをめぐる表現は、それが単に眠っているだけに見える人物像であっても、描かれた当時の時代背景などの文脈を踏まえることや、現代の状況と重ね合わせることで、そこから異なる意味が引き出されることがある。(略)
 現代作家・森村泰昌の作品(no.3-9~3-10)では森村扮する三島由紀夫が建物のバルコニーにたち、通りすがりの人々に向けて「静聴せよ」と繰り返し呼びかけるも虚しく、誰も目を向けない。森村扮する「三島」にとって聴衆は目覚めているが眠っている状態にあると言えるだろう。
 (略)ただ、阿部が生きた時代も、森村が生きる現代も、「目覚めよ」と言う呼びかけが各方面からもたらされてくる点は共通しているはずで、そういった中であればこそ、眠ることを選択する人々の存在が際立って見えてくると言えないだろうか。
第4章 目覚めを待つ
 眠りの後には、目覚めが訪れる。眠りと目覚めの繰り返しには、第2章で取り上げた小林孝亘の言葉を借りれば「小さな死」の蓄積があるが、眠りが長く、目覚めを待っている場合には「小さな死」は持ち越され、生がゆったりと持続するだろう。
 (略)地層のようにさえ見える文書の山の中には、発掘されるものもあるかもしれないが、存在すら忘れ去られ、埋没してしまうものもあるかもしれない。そうしたアーカイブのありさまが、70点ものシリーズという形で、淡々ととらえられている。
 種子やアーカイブは、現状では眠っているが、ただ眠っているのではなく、将来的な目覚めを期待させる。あるいは、このように展示された形で私たちの目に触れている時点で、一種の目覚めを迎えていると言えるかもしれない。
第5章 河原温 存在の証としての眠り
 河原温は、自宅やホテルの一室にこもって、その日の日付をキャンバスに描き込む「Today」シリーズ(いわゆる「デイト・ペインティング」)で広く知られる(nos.5-1~5-5)。(略)
 "I GOT UP AT 〇〇(私は○時○分に起きた)"と絵葉書に印字した「I GOT UP」シリーズ(nos.5-8~5-35)もまた、絵葉書が発送されたその日、河原が確かに存在したことの証明となる。しかし相手方に届く時に彼が「まだ生きている」ことの保証として、その絵葉書は機能しない。こうした作品を前にするとき、観る人は、生と隣り合わせの死について、否応なしに想起させられる。
終章 もう一度、目を閉じて
 (略)本展の締めくくりとして、眠る人、目を閉じる人を描いた2点の作品を取り上げ、眠ること、目を閉じることの意味を考えたい。
 これらの絵に描かれた人物は、見る側である私たちを見返すことはない。そのことは、見る側に一方的に視線を向け続けることを誘発する反面、見る側に目を閉じることを促す側面もあるだろう。絵の中の人物の側から見返されることはないがために、ともすれば挑発的、攻撃的にもなりうる視線から自由であるためである。(略)

美術館が展示をストーリーとして観者を誘導しつつも、説明として一方的に与えて終わるのではなく、必ず観者に対する問いがあり、それが能動的な鑑賞を促している。観者を無知な子供扱いして「みんなも考えてみよう」と答えのある問いを与えるのは、観者の能動的な思考に見えて実際は「答え」という知識を与える一方的な行為である。しかしここでの問いは全て答えがなく、知識の獲得よりも思索を促している。これはそれぞれの章だけでなく作品単位、そして展覧会全体を通して同じスタンスが貫かれている。答えのわからない「問い」のままで終わるのに、不思議とモヤモヤすることはない。「答えがない」という美術の在り方が肯定されるという体験だけでも、この展示は十分有意義であると思う。

徹底したデザインとコンセプト

会場、フライヤー、パンフレットに至るまで、徹底して一貫したデザインのコンセプトが美しい。展示のテーマを深く踏まえたデザインであるように思う。展示室の設計はトラフ建築設計事務所が、グラフィックデザインは平野篤(AFFORDANCE)が、会場装飾はStudio Onder de Lindeが担当している。色使いもカーテンの構想も会場の動線も見事で、TwitterやWebサイトで見ることのできるゆらゆら動くロゴのGIFも気に入っている。Twitterでは会場制作に関わった丹青ディスプレイやStudio Onder de Lindeのインタビュー動画も掲載されており、非常に面白かった。

もともと東近美は他施設でよく見る布の吊り下げバナーをあまり使っていない印象があるが、今回は建築設計事務所が関わっていることもあり、会場は「建築」感が強い。章の導入文も全て壁面に印刷されている。眠り展の前に行われたピーター・ドイグ展の壁面を再利用しているようだが、その時と出入り口が真逆になっていることもあり、その影を感じない新しい空間になっていた。文字通りの「眠り」をテーマにした序章が天井の低く薄暗い空間から始まり、そののち天井が高く広い、明るい展示室に出て「目覚め」の章が続いていくという展開は、設計者の綿密な計画と深い意図を感じさせる。展示を一通り見終えてから会場やグラフィックのデザインを見直すと、その意図がより一層迫ってくる。

企画展用の仮設の壁面は、それにしては厚みがあり、常設のように壁に埋め込む形の展示ケースも採用されている。また、人の背と同じくらいの高さの構造物(仕切りの壁面)も置かれていたりと新鮮である。ホワイトキューブと呼ばれる美術館の展示形態にとどまりつつも、それを感じさせない新たな会場空間の形だった。ここまで展示空間にこだわり、それを現状の設備の中で上手く実現させた展示は初めてのものだ。それなりに費用はかかりそうだが、ハードの面で展示環境をアップデートできない施設であっても、眠り展の会場空間の作り方は取り入れることができるだろう。

会場設計の詳細についてはトラフ建築設計事務所のHP(http://torafu.com/works/sleeping)をぜひ見てみて欲しい。

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「角」の排除

「徹底したデザインのコンセプト」という言葉を出したが、これがどれほど徹底していたかという話をしたい。デザイン性が一貫しているのはもちろんだが、ここで注目して欲しいのは徹底的な「角」の排除という点である。

展示会場では壁面からフォントまであらゆるものの「角」が排除され、丸みを帯びている。部屋の角に当たる部分は壁面が丸く加工されており、硬い板の壁面だけでなく美しいひだを持ったカーテンが壁面がわりに大胆に用いられている。これは仮説の壁面に関しても同様に端が丸く加工されているが、「目覚め」を題材とした第4章に関してだけ角がそのまま残されている。これは前述のトラフ建築設計事務所HPに掲載されている写真を見てもらうと良くわかるはずだ。

フライヤーやキャプションのフォントはゴシック体のようにカクカクと角を持つフォントではなく、丸みを帯びた柔らかいものが採用されている。東近美の常連はすぐに気が付くと思うが、キャプションの素材もいつもの四角いシールではなく、角を丸く落とした薄いボードが直接壁に打ち付けられている。そして「角」の排除はパンフレットの細部にまで及び、製本に使われているホチキスは白く柔らかい素材でコーティングされている。

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展示における情報-題名とキャプション

展示においていつも議論を呼ぶのはキャプションの存在である。説明がなければわからないと言う人もいれば、そうした説明なしに鑑賞する方が純粋に作品と向き合えると言う人もいる。東近美の常設などを見ていると、ここはいつもキャプションにかなりしっかりとした情報量を持たせているように思う。章の導入文もぎっしりと重めだ。しかし、その情報量のわりにキャプション自体の主張は激しくなく、これによってキャプションを読む・読まないの選択が鑑賞者に委ねられている。題名をはじめとする作品情報を含めて、壁面に溶け込む色のキャプションで文字もかなり小さい。キャプションを読むことで展示のストーリーに乗っかった見方も、作品だけと対峙する見方も両方できるようになっている。

また、今回の出展作品は全体として題名の存在によって作品から受ける印象が変わってくるものが多い。これはシュルレアリスムにおける作品と題名の関係性と似ている。(実際眠り展では内容にシュルレアリスムも関係している。)たとえば、そこに眠る人の不在を予期させる内藤礼の《死者のための枕》などは、一見なんともない小さな枕の造形だったのが、題名を見た後では「不在の死者」という存在が急にそこに立ち現れてくる。そうした題名を軸とする作品の印象の転回は非常に面白い体験であった。これも題名のキャプションの存在感が薄い故にできることで、作品より先に題名が目に入ってしまえば最初から小さな枕は死者のための物にしか見えない。

キャプションに情報量が多いとはいえ、説明の余力を残した物も多かった。マン・レイの『醒めて見る夢の会』は、彼がシュルレアリストであることや、彼が仲間のシュルレアリストたちと行った実験を踏まえると「醒めて見る夢」の意味が良くわかる。同じシュルレアリストのエルンストや瀧口修造のデカルコマニーの作品も、シュルレアリスムに関する知識があると「眠り」との関係性が更に理解できる。しかしこれらの作品には題名を含む基本情報以外のキャプションはない。自分はこうした知識に基づく理解をすぐに付与したくなってしまうのだが、それはあくまで鑑賞の方向性の一つであって、それだけが目指すべきものという訳ではない。思い切って言葉を削ぎ落とすという「説明しない」勇気も今後必要になってくるだろうと感じた。

答えのない「問い」のスタンスによって、展示は前提知識の有無に左右されず全ての鑑賞者に等しく投げかけられることになる。このスタンスは近現代美術に含まれる作品の制作に通ずるものがあり、企画展自体がそうした一つの作品の形になっていると言うことができるほど、こだわり考え抜かれた展示であった。

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