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ターニングポイント②

引き続き、私の”天文的”人生のターニングポイントを。

3.高校地学部のプラネタリウム
①の終わりに書いた停滞期を抜けたのは高校に入ってからのことです。私の母校は神奈川県立多摩高等学校(以下、多摩高)ですが、当時は神奈川県立高校には学区という制度が存在し、私はいわゆる学区外受験でした。学区外からは定員の8 %しか生徒を採らないので、かなり狭き門だったわけです。多摩高を選んだ理由はただ一つ、地学部があるからでした(いま振り返ってみると天文学者の先輩もいます…杉山直さんとか服部誠さんとか)。中学校には科学系の部活動がなく、それも中学生時代に天文活動が停滞した原因の一つだったんですよね。
というわけで猛勉強(?)の末、無事に多摩高に入学し地学部に入部したわけですが、なんと部員は私一人(!)。正確には3年生が2人いたのですが引退間近ですから実質一人なわけです。まぁ、好き勝手できましたが(笑)多摩高の地学部はかなり伝統があって、活動の一つに文化祭でのプラネタリウムの投影がありました。プラネタリウム、といってもドームの真ん中に投影機があって星を映すタイプのものではありません。イメージとして近いのはゴットルプの天球儀でしょうか。すなわちドームの天上に星の配列に穴が開いていて、中から見ると外の光が漏れてきて星空に見える、というものです。なので日時も緯度も固定。しかも多摩高地学部のドームは竹を編んで骨組みを作り、そこにボール紙を貼るというものでした。OBの自宅に庭から竹を採るところから始めるんですよね。採った竹を四つに割って、削って平板にして骨組みを作る…非常に重労働でした。これを一人で…ですから、我ながらよくやったと思います(さすがに竹採りはOBの方たちが手伝いに来てくださいました)。
なんとか製作は間に合い、文化祭でお客さん相手に星空の話をしたわけですが、これにすごくハマったんですよね。自分が好きな天文の話を聞いてくれる人がいる、ということで悦になったとも言えるかもしれません(笑)とにかく楽しくて仕方なかった…これがプラネタリウム投影者としての自分の原点だと思います。当時、どちらかといえば天文学の研究者になりたかったのですが、この文化祭でプラネタリウムの投影をしたことがきっかけで、進路は大きく舵を切ることになりました。たまたまプラネタリウムを見に来てくださったOBの先輩が、彼と同期だったTさん(兵庫県H市にある科学館の学芸員さんの奥さん)を紹介してくださり、相談いただいた結果、志望大学を東京学芸大学に定めることになったわけです。東京学芸大学に業界の先輩方がいっぱいいらっしゃる、というのを知るのは後の話のこと。

4.しし座流星群とAstro-HS
高校時代、もう一つ私に大きなインパクトを与えたのが、しし座流星群です。私が高校に入学したのは1998年…ちょうどしし座流星群が大出現するのでは?と話題になりつつある年でした(結果として、最も多くの流星が流れたのは浪人中の2001年でしたが)。当然、自分も観測したい、ということになるわけですね。生徒の活動にかなり寛容だった多摩高は学校に泊まって流星群の観測をすることについては何も問題なかったのですが、如何せん部員が一人…と嘆いていたところにOBOGの方たちが来てくださいました。おかげで、いわゆる流星の団体計数観測をすることができたわけです。
当時、全国の高校の先生方や科学館・プラネタリウムの学芸員の方々が、一人でも多くの高校生にしし座流星群を見てもらいたい、という思いで「高校生天体観測ネットワーク」というものを立ち上げていました。当時は「天文甲子園」とか「しし座流星群全国高校生同時観測会」とかいうネーミングでしたね、たしか。これは全国の高校生が各々観測した結果を報告し合って、全国規模の観測ネットワークを構築しようという者でした。たまたま新聞記事か何かでその存在を知った私は顧問の先生に頼み込んで参加させてもらうことになったのです(参加グループの指導者=”大人”が入るMLにこっそり自分のアドレスで登録していたのはここだけの話・笑)。部員が一人=仲間がいなかった当時の自分にとって、直接会えるわけではなかったにしろ(当時は直に集まる場である全国フォーラムがなかった)、同世代の友人たちと繋がれたのは貴重な経験でした(まさかその後、Astro-HSの事務局長になるとは当時の自分は知る由もありません)。
なにより、しし座流星群の観測はサイエンスとしての天文学の面白さを改めて見直す機会になりました。流星やその母天体である彗星の研究をしてみたい、それらの専門家である渡部潤一さんにお会いして話を聞いてみたい…その思いを強くした一夜でもあったのです。

(続く)

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