見出し画像

性自認が内心だけで決まらないこと、差別禁止の意味

今トランスヘイトがひどくなっていて、扇動は私の過去記事から起きている部分もあるのだろうなと思います。埼玉の市議が、LGBT関連条例をストップする旨の発言で炎上していて、発言の中に「ジェンダーアイデンティティが内心の自由」との文言があり、当事者から「内心の自由ではなく表現の自由だ」との批判が出ています。

埼玉の市議の誤りを一つ一つただしていこうかとも思ったのですが、私のジェンダーアイデンティティにはトランスの要素がないため、不用意な発言をして揚げ足取りの材料を与えたら、またヘイトがひどくなることが予想されるため、私の知っていることを素直に書こうと思います。

ところで私は、ノンバイナリーとシス女性の2つのジェンダーをもつ「バイジェンダー」自認です。ノンバイナリー要素があると気づいたときの過去記事はこちらです。

20歳くらいまでは自分はシス女性だと思って生きてきましたが、ファッションの流行を追っても何かしっくりこなくて、自分のスタイルが決まらずに迷っていました。途中から、流行を追うよりも、シンプルで無駄のない服装をした方が性に合うことに気がついて、その方針に変えました。今はすっかり板についていますが、流行を追いがちな傾向から、シンプルで無駄のない見た目に落ち着くには時間がかかります。何より、周囲から流行を追わないといけない圧が存在しない環境が必要でした。

自分のスタイルの移行を、トランスジェンダー当事者が言うような「パス」と比べていいのか疑問は残るものの、ファッションの変更においても、自分に似合うことを考えるならば、移行には周囲との関係性が必要です。服だけではありません。普段の表情などからも、移行したスタイルに不自然な感じを与えないことが必要になってきます。私の場合は、ファッションを変えた動機が学業に集中するためだったのでまだ事情は軽いですが、トランスジェンダーの場合は、自分の見え方は生存そのものに直結するため、切実さが全然違うのだろうと思います。

特に、性別移行をするときに「他者から見て不自然に感じられない」ことが、スタイルそのものよりもよほど重要ではないかと思われます。だから、「ジェンダーアイデンティティは内心の自由ではなく表現の自由だ」という批判が出てきたのだと思います。

そしてまた別の当事者は、「内心の自由と表現の自由の境目が差別禁止法である」と言います。内心が侵害されない(プライベートを詮索されない)ことと、表現が侵害されない(見た目をとやかく言われない)ことの境目が差別禁止法だと。ある人を他者から見て、その人の内側に内心があり、外側に表現がある、内側と外側のバウンダリーを侵すな、ということですね。

つまり、「差別を禁止する」とは、「自他のバウンダリー(境界)を侵すな」ということなのでしょう。バウンダリーを大事にしてほしいのは、トランスジェンダー当事者だけでなく、性被害の経験があるシスジェンダーでも同様のはずです。

今トランスジェンダーの身体や見た目をとやかく言っている人は、自他のバウンダリーを侵しているので、差別をしているのです。差別禁止法は、それをやめるよう促す法律になるのでしょう。

したがって、トランスジェンダーの権利がシスジェンダーの権利と衝突するという埼玉の市議の認識は、誤りです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?