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黒い闇の淵から 【2000字のホラー】

 外来が終わり、中元優なかもと まさるは腕時計を見ながら皮膚科診察室を出た。
 6年目の医者はまだまだ下っ端だ。外来が終わってもやらねばならないことは山ほどある。優は病棟へと急いだ。

 途中でスマホを取り出すと、妻の香織かおりからLINEが届いていた。
 『今夜 お通夜に行くことになったから遅くなります』
 お互い医者だから、帰宅時間が遅くなるくらいではあまり連絡しない。珍しいなと思いながらも深く考えず、『了解』とだけ返信した。

 その夜遅く帰宅した香織は、紅潮した頬をしていた。テレビを観ていた優が「おかえり。通夜って誰の…」と言うのに被せるように話す。
 「ねえねえ、あなた橘麻衣たちばなまいさんって知ってるでしょ?」

 橘麻衣。
 その名前を心の中で反芻し、次第に滲んでくる汗を感じながら、優は妻の表情の裏を読もうとした。どう答えるのが最適だろうか。
 「え? 誰だっけ?」
 「ほら、うちの病院の看護師さんよ。ERの。あなたも知ってるでしょう?」

 香織が現在勤めているのは、優が研修医として働いていた総合病院である。研修を終えた優は大学に戻り、香織は入れ替わるようにその病院に転勤となった。

 ここでごまかさないほうがいいだろう。優は自然に、しかし少し驚いたていで返事をした。
 「ああ、あの人か。うん知ってるよ。当直の時によく助けてもらったな。大人しいけど仕事できる人だったよね」
 妻は再び被せるように言う。
 「あの人のお通夜だったのよ。今日」
 「え?」
 「皮膚がんだったって」

 皮膚がん? 麻衣が死んだ?
 血がすうっと下がっていく。思わず両膝を手で押さえた。その足が小刻みに震える。

 香織は少し興奮して話を続ける。
 「詳しくはわからないんだけど、悪性度が高いがんなのに無治療だったんだって。どうしてかしら。今はいい薬もあるのに、早く治療していれば…」
 妻の目からひと筋の涙が流れた。


 「先生?」
 しわくちゃのシャツを着ようとしていた優に、麻衣が話しかける。
 「あの、足をみてもらえませんか?」「足?」
 寝乱れたベッドの淵に座っている麻衣の足がカーテンの隙間から差し込む朝日より眩しくて、優は目を細める。

 麻衣は左足をみせた。
 「どれ? えっ、これ?」左下腿の内側に黒い色素斑がある。
 長径は…10㎜くらいか。形がいびつで、淵はギザギザしていて不明瞭。色は濃い黒色だったり淡い赤茶色だったりでムラがある。典型的だ。

 「これ、いつからあるの?」
 「1年くらい前かな。最近になって大きくなったような気がします」
 麻衣の瞳が不安げに曇る。
 「念のためにリンパ節もみとこうか」
 明るくそう言って麻衣の足の付け根を指で探っていくと、コリコリしたものが触れる。まさか、鼠径リンパ節転移か?

 再び色素斑をみる。黒い部分は底なしに黒い。赤茶色に滲んだ辺縁部は、まるで腐った血液ではないか。目を凝らすと細胞が猛スピードで分裂するさままで見えるようだ。

 おぞましい。まがまがしい。教科書でもこんなのは見たことない。

 どうしたらいい? まずはCTか。その結果次第でPETペットだな。どの先生に紹介しよう。すぐに皮膚科を受診させて…。

「先生?」
 麻衣はまばたきもせずに優を見ている。黒目がちの瞳は光を失っている。彼女は時々、そんな目をする。

 優はにっこりと微笑んで、言った。
 「大丈夫だよ。ただのシミだと思うよ」

 「えっ本当ですか?」
 「まあ僕はただの研修医だから、心配なら皮膚科を受診してね」と、おどけて言う。
 「よかった。先生がそう言うなら安心です」
 麻衣はやっとまばたきをした。

 その後、麻衣とは疎遠になった。仕事も忙しかったし、研修が終わったら香織と結婚することになっていたから、僕には何もできない。それは麻衣も知っていたはずだ。彼女はものわかりがいい女だ。


 「聞いてるの?」
 妻のその声で我にかえった優は、少し冷静さを取り戻していた。さっきからひっかかっていたことを口に出してみる。
 「きみは橘さんと仲が良かったの?」

 香織はコ・メディカルを大事にするが、深入りはしないタイプだ。こんなふうに感情移入するのは珍しい。

 「そうでもないんだけどね。彼女は1年くらいで辞めてしまったし。でも今日お通夜のことを聞いて、行かなきゃって思ったの。行かなきゃ、って」

 つらつらと話す香織の目が、ハーフパンツをはいた優の足に止まった。
 「えっ、それなに?」
 優の左下腿を指す。

 「なにって? うわっ」

 そこには、いつか見た黒いものがあった。

 闇のように黒く、ところどころ赤茶色で、淵がギザギザで、例えようもなくまがまがしいものが。猛スピードで増殖するおぞましいものが。

 「だ、大丈夫だよ。ただのシミだよ、きっと」

 妻の瞳は闇のように黒い。周りの光を吸い込んでいるかのように。

 「よかった。あなたがそう言うなら安心ね」

 沼の底のような妻の目を、優はまばたきもせず見つめた。



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