寺町の文化遺産、蓮昌寺の歴史的背景
お寺の数え方
あまり聞きれないことかもしれませんが、お寺の数を皆さんならどうお考えですか?正直、私もあまり考えたことがありません。正解は、1箇寺、もしくは「箇」の略字でもある「ヶ」を使い、「1ヶ寺」と書きます。読み方は、「いっかじ」と読みます。しかも!新発田市にあるお寺や寺院の数は「約116ヶ寺」あるんですよ!凄いですよね!
その中でも今回取材行かせてもらった蓮昌寺さんについて取り上げた歴史、魅力、そして寺町通りとの関連性についてご紹介します。
蓮昌寺とは
久栄山 蓮昌寺は、正和2年(1313年)に、僧 印源が、師僧である摩訶一院日印聖人を開山と仰ぎ現在の角田浜に開創した、蓮華寺を寺歴の始まりとする、日蓮寺寺院です。
角田山 一山三ヶ寺
当時、日蓮大聖人佐渡流罪の砌ご一泊の霊地角田浜に「妙法蓮華経」に因みに、妙法寺・蓮華寺・経王寺の三ヶ寺が建立され、角田山 一山三ヶ寺と称されていました。妙法寺は、後に妙光寺と改称しますが、そのまま角田浜に残り、経王寺は村上に地を移し現在に至ります。蓮華寺は、貞和5年(1349年)
当時まだ新開の地であった民家わずか50軒足らずの新発田に篤信者があり、その求めに応じて、上数人溜(現在の諏訪町)に移転して名称も蓮華寺から現在の久栄山蓮昌寺に改称したと言われています。
三ヶ寺
江戸時代から続く蓮昌寺
写真にもある蓮昌寺のこの建物は築約200年を超えており、建物そのものを改修する寺も多い中、蓮昌寺はその建物の細かいところまでほぼそのままの現存になっています。お寺を造るのに約10年かかるとも言われています。
寺町通りとお寺との歴史
寺町は豊臣秀吉が京の町を囲む「お土居」を築き、町中の寺を一か所にまとめたことから生まれた名称です。寺町は参勤交代で利用する越後街道沿いに配置され、寺院は広い境内と防衛機能を持ちました。現在も「寺町通り」周辺には16の寺院が集中しており、歴史ある寺が軒を連ねています。この地域では「しばた寺びらき」などのイベントが開催されています。
寺町に寺が集中している理由
それではなぜ寺を一ヶ所に集める必要があったのか?利点は何なのか?その答えは大きく分けて2つあります。
1 防火対策
江戸時代の都市計画において、寺院が防火帯としての役割を果たすことが一般的でした。木造建築が多かった時代において、火災は都市にとって大きな脅威でした。寺院は石や瓦などの耐火性の高い建材を使用して建設されることが多く、そのため防火帯として都市の周囲に配置されました。
2.新発田藩の戦略
新発田藩主であった溝口氏が、計画的に寺町を整備しました。新発田氏やその後の溝口氏は、寺院を一箇所にまとめることで、藩内の宗教活動を管理しやすくしました。また、寺院を保護し、信仰心を高めることで、藩士や領民の心をまとめ、藩の統治を安定させる狙いもあったとされています。また、城下町が町人の職種別に分かれていたことも、寺が集まる要因とされています。
寺びらき
写経や、コーヒータイム(1対1での内緒のお話1時間半)をやりました。
蓮昌寺は観光寺ではないのでいつでも出入りすることはできない所だが、自分に合ったお寺は一つはあると思うのでそれを見つけることが出来る機会が増える寺びらきというイベントは良いものなので協力していきたいと考えています。
年間を通じてどのような祭事や行事が行われていますか?
お寺なので春夏お彼岸は皆さんやりますし、お施餓鬼といって仏教では大事なことですので、各宗派、日は違ってもやっています。年中安泰とかをご祈願するなどあります。宗祖のご命日を年に1回みんな集まって語法円しています。
蓮昌寺の年中行事
月例行事
・信行会 毎月 7日 月例
午前11時より
・写経会 毎月17日 月例
午後2時より *いずれも、8月はお休み
特別行事
・春、秋彼岸供養会 お中日
午前11時より
・新春大祈祷会 正月 7日
午前10時半より
・お施餓鬼、新盆供養会 7月7日
午前11時より
・日蓮大聖人報恩お会式 11月7日
*いずれの行事も、ご予約等不要ですので、お気軽にお参りください
感想
今回、蓮昌寺を取材させてもらったことで、新発田市に寺や寺院が密集してる理由、そして寺町との関わりなどが少しずつですが、理解できてきたと感じています。本来と寺の存在とは別の背景が見えてきて、これだけの歴史や魅力が詰まっていたので勉強になったなと思っています。
参考文献
電話番号 0254-22-3509
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