嫌な記憶の芋掘りゲームの話

昨日観た「アジール街に集う子たち」で、嫌な記憶の芋掘りゲームが始まってしまったので芋掘りをします。一回ケータイのメモ帳にも吐いたけど足りないので。ネタバレと他人への配慮が薄い奴。
初めてのnoteが愚痴ってどうなん、とかはもういいや。
とーよこきっずとかをモチーフにした話だったので、自然登場人物はグレた子供達で、そういう子供達に対して嫌悪感のある人間が今からブツブツ言います。
自分は、グレる勇気もコミュ力もなく、親の理不尽に対応し切れるほど有能でもなかった、あたりが結論です。
搾取子の多分軽いやつ(暴言や見つからない部分への暴力、他の大人にバレない程度の放置)の扱いを受けていて、妹の自尊心を上げるために比較対象として貶され続けるポジションの子供でした。
学校は小学校に入ってから義務教育期間ほぼずっと崩壊していて、酷い時には長期休暇のたびに教師が辞めていました。
大人はその「群れて大暴れする子供」の対応に手一杯なので、当然自分のようなただ静かに窒息するように病む子供に構う余裕はありません。自分は、コイツらがいるせいで自分が救われる分の大人からの優しさを奪われているのでは?と被害妄想を膨らませていましたし、今でもそう思っている節があります。
あいつらが構われるならそれよりは「(どうでも)良い子」の自分にも権利はあるのでは?とか。思ってしまう訳です。
彼らにも辛い境遇や経験はあるのでしょうが、結局仲間を持って、群れを作れるのであればまるで救われているじゃないか、と彼らを見ていました。エンタメに触れる機会も奪われている自分はその仲間になることもないので。「みんなが好きで知ってる」人や物に何かあるたびに酸っぱい葡萄の彼らを未だに強く嫌悪しています。
本当に当たって良い(?)先は多分親なのでしょうけど。
助けを求めた子供、大人、インターネットの向こう側の人、みなに「お前が我儘を言ったのだろう」と言われたのでもう自分が自分である事が我儘なのだろう、とさっさと諦めたいものです。それでも性格的に諦めが悪いのでこうグチっとときたま反芻しては苦しむわけですが。

舞台の話を何もせずにこんだけ長文を書ける程度には恨めしいものが溜まっているわけですが、舞台上の彼女達も「自分たちは幽霊」「居場所がない」とか言っているわけです。アジール街にいて、同じように集まる同年代の子供がいて、共通の言語を持っていて、山さんの様な気を遣ってくれる大人まで用意された世界にいるくせに。
まあ彼らの境遇もわかりやすい、大人が「辛かったね」と言ってあげやすい可哀想さでそれがまた苛立たせる。可哀想度で言ったら自分は本当に大したこともなくて、自分を助けても助けた感、みたいな達成度は低いだろうな、と。
相対的に自分はどれほどなのか、ばかりを考えている。

結局話は戻って自分がどれだけ納得いくか、なのだろうとは思ってはいる。
オチもなにもなくただの嫌な記憶を芋蔓式に引き摺り出してみただけ。

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