稲葉の白兎的自問自答
出張中は筆が乗ると相場が決まっている。
仙台から新幹線に乗り、岩手県に向かって新幹線は進み続けている。
岩手県、今回で行くのは3度目になる。
おそらく今後も何回か行くことになるだろう。
いつもは一人で出張しているが今日はもう一人、お客さん(のような人)と行動を共にしている。
席は別々なのだが要所要所会話をしていると、なんか弟がいたらこんな感じなのだろうか…とか息子がいたらこんな感じなのだろうかと考えてしまう。
息子にしては大きすぎるが。
彼は歳の割には聡明で落ち着いていると思う。
ただ、お昼どうするかと聞いた時に駅弁が食べたいというので了承したところ、「やった」とはしゃいでいた。そこについては年相応だなと思う。どうやら新幹線が初めてらしい。
私もこんな気持ちで新幹線に乗っていたのだろうか…と考えていたがあいにく初めて新幹線に乗った時のことは覚えていない。
先日友人と話している時にこのnoteのことについて話してくれた。
読んでると言ってくれたこと自体嬉しかったのだが、感想と考察まで頂けるとは思わずこっそり照れていた。
彼と話している時に一つアイディアをいただいたので僭越ながらこの場でそのアイディアを消費させていただきたいと思う。
それは「自分の欠点」について書いてみるということ。聞いた時面白いなと思ったのでいつか書いてみたいと思っていた。それが今。
現在出張から帰るバス内、窓の外は暗く、たまに通り過ぎる車の明かりが線になって通り過ぎていく。なんとなく自分の欠点を深掘りするにちょうどいい環境かもしれないと思った。
私の欠点。就職活動の時になんと言ったかあまり覚えていない。ただ、言い換えるといい意味になるように考えていた気がする。
「ワタシノイイトコロハ、… … … ナトコロデス」
だめだ本当に覚えていない。
今までの人生を振り返ってみる。
私は存外よく泣く人間だった。転んだり恥ずかしかったりするとすぐ涙が出てしまう。今思うと羞恥心を異様に感じやすい子供だったのかもしれない。可愛い女の子であればそれが利点になるのかもしれないが、私は残念ながら美しくなかった。
よく男子に泣くことを揶揄われていたと思う。それでまた泣いていた。負のスパイラルである。
となるとよく泣く事が私の欠点であろうか。いや、今はそこまで涙を見せることはないし、一番のと言われるとそうではない気がする。
よくよく人生を思い出すと、そういえば私って継続できないな…と思った。
努力が嫌いである。
特に自分がやりたいと思う事以外に関しての努力が本当にできない。やる気スイッチがその瞬間に皮膚の中に入り込んでいくのがわかる。
テスト勉強も面白いと感じる教科以外はしたくなかった。この先生の授業面白いなと思う教科しかやる気が出なかった。
包括的に考えると興味あることしかやりたくないということになる。言い換えると我慢強くないということが欠点になるだろうか。
ただ、興味があることに関してはめちゃくちゃ努力をしているし何があっても挫けることはない。…はず。なのでこれも違うだろうか。
バスに乗ってから30分経った。
いまだに答えが見つからない。
そもそも欠点とは何かを調べてみた。
不十分・不完全、なおかつ非難の対象となるような点。この定義から考えるに誰かから非難された時のことを思い出せばいいのかもしれない。
誰かから非難されたこと。
やはり自分のやりたくない事に関して努力をしないところだろうか。(また話戻りますが)
よく覚えているのが中学生のころ、漫画家になる!と意気込んでいた私は絵がたくさん描ける美術部に入りたがったが両親がそれを許さなかった。いやいや入った陸上部でなんとか頑張ったが天性のスポーツの才能の無さとやる気のなさから部活の顧問からアホみたいに怒られた事を覚えている。
いや、少なくとも努力はしていた…気がする。
毎日部活外で3キロは走っていたし、部活が休みの日は河川敷に練習しに行っていた。
だめだ言い訳してしまう。
そうだ!言い訳してしまうところだろうか。
いや、うーん。言い訳ってなんだろうか。
別に自分自身言い訳を悪い事だとは思っていない。なぜこの事象が起きてしまったかの理由を客観的にすり合わせをするためには必要な事だと思っている。あれ!?もしかしてこれも言い訳!?
また非難された事がある事を考える。
非難の対象となること、という前提からするとさっきの努力できないことが答えになるのかもしれないが「自分の」欠点なのだから私が納得できないと気が済まない。主観の欠点と客観の欠点。両者が合致することは果たしてあるだろうか。
いや、もしかするとないかもしれない。
就活のことを再度思い出したのだが、欠点と利点は見方によって言い換えをする事ができる。
自分が短所だと思っていても他の人が長所だと思っているかもしれない。そう考えると誰もが納得する自分の欠点って難しい。
こうなるともう主観に頼ってしまおうと思う。
自分が嫌いなところ。
一つ思い当たるところがある。
私は人の目をよく気にしてしまう。
人からこうみられるのは恥ずかしいことだとか、羞恥心を感じやすい分人からどう思われるかという事に人一倍過敏である。
だから必要以上に愛想良く、嫌いな人にでも接してしまう。どうでもいい人にでもだ。
母からは「あんたは外面がいいねぇ」と言われることもある。ぶっちゃけこの外面の良さで人に気に入られたりすることもある。長所といえば長所だ。でも私はこの外面の良さがあまり好きではない。
理由は誠実ではないからだ。
誰にでもいい顔をする。気に入られるように振る舞う。嫌なことを嫌だと言わない。
私は優しくて都合が良くてヘラヘラしてる人だ。優しくて誠実な人では決してない。
何となく納得ができる理由が見つかったところで欠点、短所とはなにかと改めて考える。
不十分で不完全。非難の対象となる点。本当にそうなのだろうか?
見る方向から、角度から、短所は長所に変わる。逆も然り。私たちが「短所」だと思っているソレの正体は何なのだろうか。
多分これは人生における永遠のテーマだと思う。
出張が終わってからあらためて見直している。
いまだに自分の短所、欠点のことを考えている。短所を定義する意味、短所がある理由、人の行動を不快に感じる理由。まじでわからん、人間の脳みそむず過ぎだろ。
この世界に定義されているものは何か意味があるはずなのに、なぜ私は理解できないのだろう。
と思った瞬間に答えチックなものが降ってきた。
もしかすると形のないモヤモヤとしたものに名前をつけた結果が短所、欠点なのではないだろうか。概念は名前を持つことでそこに質量を持つ。欠点・短所は人間がこの世に必要だから作り出したものではなく(広義だとそうなのかもしれないが)その場にモヤモヤと漂っていたものに質量を持たせてしまったものかもしれない。
名前がなければ今もなおボンヤリと浮かんだ形のない何かだったかもしれない。
そう考えると少し苦しくなる。
「こんなものに名前がなければ」なんて考えてしまう自分がいる。もう何年も前に生まれてしまったものなのに。私の方が新参者なのに。
私は、私より後に生まれる人間たちはこの言葉に苛まれて生きていくのだと感じるとなんとも力の強い呪詛だなと感じる。
多分この終わりは思っていたような考えではないと思う。もしよかったら、これを読んだみなさんも考えてもらいたい。
欠点とは、短所とは何か。自分とは何か。
ぜひ教えて欲しい。
自分の奥深くを引き摺り出すような自問自答はどうしても慣れない。薄皮一枚を剥かれて、塩を塗りたくられたような気持ちになる。
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