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満月の夜話(5) - 狼の月 -


「ありがとう、お姉ちゃん。私、お母さんになったよ。」


私の一番幼い記憶は赤いジャンバースカートを履いて、実家の近所をマリーと2人で散歩をしていた時で・・・。あ、少し長い話になるけど・・・いい?

その頃の私の身長はマリーの頭の高さと同じくらいで、一緒に散歩をしていると、近所のおばさんから「大丈夫?」と、よく心配されたものだった。
マリーはシベリアンハスキーで私のお姉ちゃん。真っ白な毛の上に黒と銀色の太い体毛で覆われていた。私はそのすごく硬い毛をゴシゴシと撫でるのが大好きだった。幼い私が抱きついても、お姉ちゃんはびくともしなかった。

カメラが趣味で会社員の父と看護師の母の間に私が産まれるよりもずっと前に、マリーは家に迎えられた。仔犬の頃は鳴き声がうるさくて苦情が来たらしいが、私にはマリーがワンワンと吠える印象はまるで無い。私が産まれた頃には、マリーがもう大きくなっていたからかな?それとも私が産まれてお姉ちゃんになったせいかな?
そう、私が産まれて以来、家族がお互いを呼ぶ名前は、私中心になった。
父と母は「お父さん」「お母さん」と呼び合ったし、私は「さーちゃん」。そしてマリーは自然と「お姉ちゃん」と呼ばれていた。
だから母から「さーちゃん、お姉ちゃんにご飯あげてね」などと私に告げられることは割と普通だし、その頃の日常だった。

そのせいか、小さい頃はマリーを人間のように思っていた。
2人でじゃれ合ったり、一緒にぬいぐるみ遊びをしたり、マリーと二人っきりの時は会話も出来た気もする。
2人で一緒に散歩するのが大好きだった。イカツイ見た目のマリーを見て、すれ違う人が道を譲ってくれた。小さな女の子が自分よりも大きなシベリアンハスキーと歩いているのを不安に思ったのだろう。案の定、お巡りさんにさえ「大丈夫?」と、よく声を掛けられた。大丈夫に決まっているのに。

父も母も仕事が忙しかったので、私が小学生の頃には、マリーと2人で留守番をする事が多かった。私は怖がりだから、父も母も居ない家がとにかく怖かった。冷蔵庫の音、押入れの扉の隙間、トイレの窓、洗面所の鏡・・・だから留守番の時はマリーのいるガレージで一緒に過ごした。
特に冬は夜が早い。父と母の帰りが少し遅くなるだけで、すぐ真っ暗になってしまう・・・暗くなった途端に怖くなりマリーの側で涙が滲んだ。

マリーはイカツイ見た目と違って怖くはなかったが、優しくもなかった。
私が泣き顔をしていると、すぐにウゥーっと喉を鳴らすし、私が涙を流そうものなら決まって大声で吠える。マリーが真面目な顔をして大きな声で吠えるのは、私が泣いた時だけだから・・・。
だから『泣くな!!そんな事で負けるな!!』と、そう叱ってくれている事を頭では分かってはいるのに、涙を止められない私に対し、マリーは何度も吠えた。そう考えると、マリーお姉ちゃんはいつも厳しかったな。

マリーが人間のお姉ちゃんではなく、犬なんだとハッキリと意識し始めた小学校2年の冬のある日、マリーは突然いなくなった。
朝起きると、いつも通りガレージにいるはずのマリーの姿はなく、父も母も慌ててガレージの中や家の中を探したが、どこにもいなかった。
近所や公園、川の方まで探したが見つからなかった。
その日、私はマリーの名前を何度も呼んでは泣いた。涙声で叫べばどこかでマリーの叱り声が聞こえそうだったから。でも、叱ってくれる声はどこからも聞こえなかった。
近所の人や警察にも届けたが、1週間経っても、1ヶ月経ってもマリーは帰って来なかった。

マリーがいなくなった頃の私はひどく落ち込んでいた。
その日から、私は妹ではなくなった。これまで一緒に生きてきた姉の喪失は幼い頭では消化する事が出来なくて、涙もうまく出なかったと思う。
父と母は、表情と顔色を失くした私に新しい犬を飼う事も考えてくれたが、私は断固として反対した。・・・お姉ちゃんはどこかにいるから、と。

マリーがいつ帰って来てもいいように、ガレージにあるマリーの場所はそのままにし、私は中学生になっても、高校生になっても週に1度汚れるはずもないその場所の掃除を続けた。その度に「お姉ちゃん」と呟いた。
マリーの事を忘れた事なんて、一度もなかったよ。
目の前で生を全うした姿を見る方がずっとずっと楽だと思い嘆いた。
どこにもいない存在を偲ぶ事よりも、どこかにいる存在を意識し続ける事は遥かに辛い。

でも、不思議な事にマリーがいなくなってからの方が、お姉ちゃんの存在を近くに感じれた気がする。いつかまた逢える、いつも近くで私を見守ってくれている、そして挫けそうな時にはいつも吠えて叱ってくれるような。
どんな時にも心の中にいて、いつもいつも「泣くな!負けるな!」と大声で吠えてくれた気がする。



「へぇ、1月の満月はウルフムーンって言うんだ。」と思わず呟く。
テレビに映った満月に吠える狼のイラストに、マリーの姿が重なって少し微笑んだ時・・・ん?あれ?痛いかも。
『満月の夜は産気付きやすい。』迷信かどうかは分からないが、2月1日に出産予定日を控えていた私は昨夜、その迷信まがいの情報を少しだけ気に掛けながら、夕食の準備をしていた。お腹の痛みは少しずつ感じていたが、はっきりとした痛みを初めて感じた。でも、すぐに痛みが収まる、また痛い。
それを何度か繰り返していた後・・・。
「迷信じゃないんだ!?」
夫はその声に気付いて慌て、そのまま夫の運転で病院へ向かった。
車窓からは綺麗な満月が見えた。病院に着き、安心して落ち着いたせいか、痛みはあるが分娩室へ向かうには早いと言われ、少しだけ時間があった。

落ち着いて勢いを失った私は、急に不安になってしまい、怖くなり始めた。
呼吸が苦しくなってきた。ふぅふぅと不安定な呼吸をしながらベッドに腰掛ける私に夫が近づき、スーツの内ポケットからゆっくりと1枚の写真を取り出し、それを私に渡した。
「これ、さーちゃんのお母さんから預かったんだ。」
「あの子が分娩室に入ったら渡して欲しいって。あの子は泣き虫だから。 それに犬は安産の神様だから。って」

カメラが趣味の父が撮った幼い私とマリーの2ショットだった。
辛かったから、ずっと見ないようにしていたお姉ちゃんの姿だ。
お姉ちゃんったら、カメラとは全然違う方向を向いているよ。
大丈夫、大丈夫。泣かない、負けないよ。
「ありがとう、頑張ってくる。」
左手に写真を持ち、右手で夫にピースをしてみせた。


病院の先生曰く、ギリギリ安産の範囲だったらしい。
子供は2人欲しいね、とお互いに話していたが、あの痛みはもう経験したくないと夫に告げると、2人で笑った。笑うと産後のお腹がすごく痛かった。
痛むお腹を精一杯気にしながら、私は夫に尋ねた。
「やっぱり女の子だったね、名前考えてくれた?」
「うん。真っ直ぐに、正しい考えで生きていけるように・・・この名前に。」
「そ、そ、その名前はダメだよ!!」
夫の書いた名前を見て発した声は、痛みに響いて変な声になった。

「え?ダメ??」
「だ、だって、お姉ちゃんと一緒の名前になるもん。」

「え?・・・お姉さんいたっけ?」
夫は、綺麗な書体で書かれた『麻理』という名前を見て首をかしげ、不思議そうに言った。
「いるよ・・・。大事なお姉ちゃんが。」
私は左手の握ったままの写真を見て、微笑んだらまたお腹に激痛が走った。

「え!?知らなかった。お姉さんの話。」
「・・・お姉ちゃんの事、聞きたい?」
「うん。」
「私の一番幼い記憶は赤いジャンバースカートを履いて、実家の近所をマリーと2人で散歩をしていた時で・・・。あ、少し長い話になるけど・・・いい?」

少し寝たものの、産後の疲れと痛みで、ゆっくりしか話せそうにないや。
痛くて、辛い。ホント痛い・・・。
でもそれ以上に嬉しくて嬉しくて、幸せで、泣きそう。
今夜だけは涙を流しても、吠えないでよ!!お姉ちゃん。



長い文章をお読み頂き本当にありがとうございました。フィクションです。
色々考えていると満月要素が薄くなってしまいました・・・。
次回の満月は2月24日(土)らしいです。

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