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きみに伝えるヒストリー⑳

清からの留学生

 きみのお母さんに「今の中国語には多くの日本語が取り入れられている」と言った時、少し驚いていました。上海生まれの彼女はもとより、多くの中国人、いえ多くの日本人も気づいていないのではないでしょうか。現在使われている多くの中国語は実は日本生まれだということを。

 日本は幕末そして明治の治世になって、西洋のあらゆるものを取り入れてきました。文化はもとより、産業や政治や思想などたくさんの事柄をです。それら欧米の文献を翻訳するために新たに作った日本語の語彙があります。

 科学、哲学、自由、福祉、革命、運動、文化、民族、法律、経済、資本、そして人民や共和国、共産主義などなどです。

 日清戦争以降約四半世紀にわたり、清から毎年5,000人ほどの留学生が日本にやってきたと言われてます。このように欧米の思想や技術や産業などがすべて漢字で表現されていましたので、留学生たちはそれをそのまま学びました。そして彼らがそれらの言葉、つまり日本式漢語を中国に持ち帰ったのです。それが中国で広がり共通語となっていきました。

 日清戦争での敗退と下関条約は清の愛国者にとって恥辱でした。一方、日本の明治維新に学ぶことの重要性も感じていました。それが、日本への留学が日清戦争が終わった1906年以降年々伸びて行ったことにつながります。清朝政府も積極的に学生たちに日本留学を進めたようです。また、1905年の科挙制度の廃止も大きく影響し、留学という選択肢が強まってきたともいえます。また日本政府も受け入れに積極的でした。

 戊戌の政変の失敗によって日本に亡命してきた康有為や梁啓超も留学生に混じって日本で学んでおります。また、孫文につながる多くの若者も日本の留学生でした。

 一方、日露戦争後すぐに清朝政府は5人の大臣を日本に派遣し、憲法の研究をさせることといたしました。変法派が掲げる君主立憲制を受け入れなければ清朝そのものの存在が危うくなると見たことによります。日露戦争は立憲と専制の戦いであり、立憲国がその勝負を優位に進めているとみる声が大きくなってきたことも、日本での憲法研究を後押しいたしました。

 ちなみに科挙とは官吏の登用試験です。隋の時代から約1300年続いておりました。古典の教養や、作詩、作文、歴史、それに政治や学術論文が問われておりました。暗記が主体となるため、もはや旧態依然としており、実用的でなくなっておりました。その制度を廃止し、そして欧米及び日本から学ぶことである者は清の立て直しを、ある者は清を倒すために時代は動いていきます。

孫文

 Revolutionの日本語訳(日本式漢語)である「革命」という言葉が、みずからの行動を表現しているとして、それを使用してきた広東省の客家出身の若者がおりました。孫文(Sun Wen)です。

 孫文はハワイで財を成した兄のもとに14歳のときに赴き、ミッションスクールを出ました。18歳の時に帰国して、クリスチャンとなり、香港の医学校で学びます。在学中に政治に目覚め、革命を志すようになりました。卒業後、マカオと広州で開業し、同時に反清運動に入ります。

 日清戦争中の1894年にハワイに渡り、華僑の成功者たちを結集して興中会を組織します。そこでは、清朝政府の打倒をうたい、アメリカ的な国家をつくることを狙いとしていました。

 翌1895年10月に武装蜂起を計画しますが、失敗に終わります。孫文は日本に亡命いたします。その後、ハワイを経てロンドンに赴きます。イギリスで見聞を広め、アメリカに渡り、再び日本にやってきます。

 そこで、日本の自由民権の伝統を社会主義的方向で発展させようとしていた宮崎滔天と出会い、彼と交流を持つこととなります。また、亡命していた梁啓超や康有為との交流も始まりました。

 1900年には、孫文率いる興中会は二度目の武装蜂起を広東省の恵州で起こします。しかしながら、期待していた日本の革命援助が無かったことにより、この時も失敗いたしました。

中国同盟会と三民主義

 そして1905年、日露戦争も終わりに近づいた折、東京で中国同盟会が設立されました。これは、孫文の興中会や湖南の華興会、浙江の光復会との合併です。孫文をサポートした日本宮崎滔天たちの斡旋によるものでした。孫文が代表となり、三民主義や革命方略を定めました。

 三民主義とは、民族主義、民権主義、民生主義をあわせたもので、民族主義は滅満興漢(清を打倒し、漢人による国を興す)を内容としており、民権主義はアメリカを模範としたデモクラシーであり、民生主義とは、貧富の差を縮小するという、ある面社会主義的な一面を持つものでした。

 やがて同盟会は、1906年から1911年にかけ、湖南、広東、広西など中南部地区で合計10回にのぼる反清武装蜂起を起こします。これらは、いずれも失敗いたしますが、革命思想を清国内に広く普及させていくこととなります。

日露協約

 日本は日露戦争で獲得した満州での占領地行政を始めましたが、その後撤兵に踏み切り、新たに設立される鉄道会社が引き継ぐことになりました。

 1906年11月に南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立されます。ロシアから譲渡されたこの鉄道はロシアの鉄道(北部の東清鉄道)に接続していますので、旅客や貨物の引継ぎ等の協議が必要でした。このため日本とロシアは満州の鉄道接続についての協定を結びました。日露協約です。1907年7月のことです。

 ロシアは韓国における日本の支配権を認め、日本は北モンゴル(外蒙古)におけるロシアの行動を承認いたしました。またこの条約には、北満州と南満州の分界線を定め互いの勢力範囲を決めた秘密条項も含んでおりました。

ハーグ密使事件

 日本による韓国支配(保護国化)について列強からの承認を得た日本は、韓国の国政に介入すると同時に歳入不足分の補填等で資金の援助を始めました。

 1907年時点の韓国は国家歳入に対してその約4倍の歳出がありました。ものすごい財政赤字です。この不足分を日本は負担したのですが、ところが高宗はハーグに密使を送って、日本の非を訴えるということをいたしました。オランダのハーグで開催されていたバンコク平和会議で高宗が送った3人の密使が主張文書を日本を除く各国に送ったことによります。

 それは、第二次日韓協約によって日本に奪われた自国の外交権回復を訴えたものでした。参加国はすべてこの主張を拒絶いたします。保護条約は韓国政府が合意したものですので、国際法上これを反故にすることはできません。何よりも列強は自国も同様な条約をアジアの国々と結んでおりますので、韓国の訴えなど認めることはいたしません。この一連の事件をハーグ密使事件と呼ばれます。

 初代韓国統監の伊藤博文は条約違反を問い詰めて高宗を譲位させ、息子の純宗が跡を継ぎました。そして、この年(1907年)、第三次日韓協約を締結いたしました。これにて、高級官吏の任免に関しては韓国統監の承認が必要であること、韓国官吏には韓国統監が推薦する日本人を登用できることなどが定められました。




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