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きみに伝えるヒストリー㉕

五四運動

 1919年5月4日、北京の天安門広場には多くの学生が集まり、各々スローガンが書かれた旗を振りかざしておりました。そこには、「二十一か条を取り消せ!」、「青島を還せ!」と書きつけられておりました。これが、五四運動の最初の光景でした。山東省の中華民国への返還要求が拒否されたことに端を発しておりました。この時パリでは講和会議が開かれておりました。

 そして、学生たちは沿道の市民にビラを配りながら、デモを繰り広げ、そして売国奴と指弾されていた曹汝霖(Cao Rulin)の家を襲い火をつけます。曹汝霖は二十一か条の折の外交部長でした。
 
 警察は32名の学生を逮捕しました。学生の逮捕というのはかなり衝撃的なことでした。学生たちは街に出て民衆に訴えていきます。そして様々な場所で抗議行動が起こされます。逮捕者も多数出ました。しかし、勢いはとどまるところを知らず、北京のみならず、抗議行動は各地にも広がっていきます。

 政府は最終的には要求を呑むかたちで、曹汝霖や他二名のいわゆる政府の売国奴(親日政策を取った者ということです)を罷免いたします。そして、先にも述べておりますように、ベルサイユ条約の調印を拒否いたしました。

 5月4日のニュースは全国各省に伝わっていきます。全省の学生たちによるゼネストが始まりました。そして、この大きなうねりの中に郷里の湖南に帰っていた毛沢東(Mao Zedong)がいました。また天津でも運動は強く推し進められており、12月にはいると天津学生連合会の執行委員長として学生たちをリードする若者がいました。周恩来(Zhou Enlai)です。

中国共産党の成立

 ロシア革命は中華民国の青年知識層には衝撃的でした。特に「新青年」を中心とする新しい文化運動を推進する者にとっては、重要なことでした。これに真剣に取り組んだのが、陳独秀とともにのちに中国共産党を創設する李大釗でした。彼は北京大学にマルクス主義研究会をつくり、ロシア革命を理論立てる研究を始めます。またこの折、毛沢東は北京大学の図書館でアルバイトをしておりました。そこで彼は図書館長であった李大釗から、その思想的空気を吸い込んで行ったものと思われます。

 1919年7月、ソビエトの首都モスクワでカラハン宣言が発せられました。この宣言は、「ソビエト政府が、帝政ロシアの行った中国に対するいっさいの侵略行為を否認し、これまでの鉄道、鉱山、山林などすべての利権を無償で放棄、返却し、義和団事件の賠償金を受けとることを拒否する」というものでした。

 中華民国では歓喜の反響が沸き起こります。中華民国はまさにこの新しくできた労働者と農民の政権を持つ国家と連帯することによって、民族の危機を救う可能性を発見することを期待し始めます。

 1920年、コミンテルンからヴォイチンスキー(Grigori Voitinsky)がある使命を持って北京にやってきました。その使命とは、中華民国に共産党の組織をつくることでした。そして彼は、まず北京大学の李大釗に接触します。そして李大釗はヴォイチンスキーを陳独秀へと紹介します。その後、陳独秀は共産党の創立発起人会を開きます。

 尚、コミンテルンとは、共産主義運動を国際的に発展させ連帯すべく指導していく組織のことです。

 「新青年」は陳独秀を中心とする上海の共産主義グループの機関誌となりました。李大釗のマルクス主義研究会は、北京グループ(小組)へと改組します。また、上海、武漢、広州などの各地に小組が誕生していきました。そして、1921年に中国共産党が正式に成立いたしました。

 同じく1920年にヴォイチンスキーは孫文をも訪ねてきました。この時孫文は中華革命党を新たに中国国民党へと改編し、国内にしっかりとした足場を固めていたころでした。中華革命党は1914年に亡命の地である日本で組織したものでした。社会主義運動にある種共感を持っていた孫文はこの訪問を歓迎いたしました。ただ、この時点では孫文とソビエトとの互いの思想を確認し合うという程度のものでした。

ワシントン軍縮会議

 1921年11月から太平洋・極東問題を話し合おうというアメリカの呼びかけでワシントンで軍縮会議が開かれました。アメリカは太平洋地域での日本の勢力拡大を抑え、また中国市場における各国の、特に日本の権益を抑制させるという目的を持っておりました。そしてアメリカは今後10年間の主力艦(戦艦・巡洋艦)の保有率を以下のように定めることを提案いたします。

アメリカ:5、イギリス:5、日本:3、フランス:1.67、イタリア:1.67

 フランスとイタリアの海軍はもともと小さなものでしたので、これは日本海軍の封じ込め以外の何ものでもありません。もちろん、これがアメリカの狙いでした。

 この折の原敬政権は軍事費を削減してそれを国内投資に回せること、石油や鉄などの輸入、また日本製品の販売市場でもあるアメリカとは良好な関係を気づいておきたいという思いのもと、この不利な条件を受け入れました。海軍大臣の加藤友三郎が全権としてこれに対処しました。同時に反対する軍部を説得していきました。

 そして、日英同盟が撤廃されることとなります。これは、日英同盟にアメリカおよびフランスを加えた4カ国同盟を結ぶために、まず日英同盟を失効とする、という理由によるものでした。そして、中華民国の門戸開放問題が協議されました。中華民国を独立国、自由市場とし、各国の勢力圏は概ね撤廃されました。

 日本にとって、主力艦の縮小より大きな痛手であったのは、二十一か条で得た山東省の権益を中華民国に返還することになったことです。ただ旅順・大連と南満州鉄道の利権は確保しました。

アメリカの排日政策

 ワシントン会議では、すべてアメリカの望みどおりにことは運びました。日本が中国大陸で権益をしっかりと得ていることに納得できなかったアメリカは、満州鉄道の共同運営や中立化案を持ち出しましたが、これらが拒否されたことに憤りを持っていたと思われます。

 そこで、日本を仮想敵国として「オレンジ計画」を練り、排日政策を断行していきました。オレンジ計画(War Plan Orange)とは、アメリカ海軍が作成した将来起こりうる日本との戦争に対処するための計画です。

 また日本が提案した人種差別撤廃案はアメリカをして日本憎しの気持ちを助長させるに至っておりました。そして、日本の中国大陸での権益の縮小と日英同盟の廃止はアメリカを十分に満足させるものとなりました。

 さらに、1920年、アメリカはカリフォルニア州で「排日土地法」を成立させます。日本移民の土地取得を二世、三世までにも制限を及ぼすものです。この後、移民の全面禁止、帰化権の剥奪、農地の借用権も認められなくする「移民法」が1924年に成立いたします。ただこれは、日本だけではなくアジア各国に対するものでした。「排日移民法」と日本では呼ばれますが、実際は日本のみならずアジア排除法的なものでした。

孫文=ヨッフェ共同宣言

 1922年、ソ連政府特命全権大使のヨッフェ(Adolf Abramovich Ioffe)が中華民国にやってきました。そこで国民党総理の孫文と協議をして「共同宣言」を発表しました。その宣言の骨子は以下となります。

*共同組織ならびにソビエト制度は中華民国で採用することは不可能である
*中華民国の緊急課題は統一と国家独立にあること、ソ連はこの課題解決に熱心に援助する

というものでした。
これにより、いわゆる「連ソ・容共」政策の採用です。この政策が今後の中華民国の政局を大きく揺さぶっていくこととなります。

 孫文は北京政府打倒のためにアメリカやイギリス、フランス等の列強からの援助にはもはや望みはもてないことを悟っておりました。彼にとっては、ソ連のみがその援助を大きく期待できる国でした。一方日本については、かって亡命時代に助けてくれた恩義もあるため感謝はしつつも、日本からの北京政府援助の取り止め、満州からの撤退を強く望んでおりました。

第一次国共合作

 1923年、孫文は配下の蒋介石(Jiang Jieshi)をソ連に派遣しました。ソビエト制度とその軍事組織を研究するためでした。蒋介石は日本留学時代に孫文と知り合い、以後孫文の下で革命党員として行動してきておりました。彼はソ連から軍の組織や共産党の規律を学んで帰国しました。
 
 そして、その年の11月に孫文は、正式に「国民党改組宣言」を発表し、外はソ連と結び、内は共産党と合作し、さらに労働者、農民を援助して民衆を基盤におく革命の党を建設する、というものでした。

 1924年1月。国民党第一次全国代表大会が広州で開かれました。ここでは、「連ソ・容共・労農援助」の三大政策を決定し、国共合作と党組織のソ連方式採用を決定しました。つまり、第一次国共合作の始まりです。そしてこの大会では新たに党役員が選ばれ、重要委員の中に共産党員が就任しました。李大釗が中央委員のひとりとなり、その候補委員には毛沢東の名前もありました。

 この後、広州郊外の黄埔に軍官学校を設立いたします。この学校では軍事訓練と同時に政治教育に重点が置かれてました。校長には蒋介石が就任しました。尚、その配下の政治部副主任には周恩来が就任しておりました。

 1924年末に孫文は北京政府の段祺瑞からの会談の要請を受け、北京に赴きました。駅前には10万もの市民が出迎え、熱狂的な期待が集まっておりました。

 しかしながら、それからほどなく1925年3月に孫文は北京で亡くなります。持病の肝臓が急速に悪化したことによります。業半ばにして北京で客死するにいたったのでした。


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