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きみに伝えるヒストリー㉘

共産党と国民党

 少しさかのぼって中国共産党の動きを見てみます。紅軍、つまり共産党は満州事変が起こった9月にさっそく決議を発表し、「反帝抗日」、「国民党打倒」、「ソビエト区の拡大強化」を全国に向け訴え始めました。

 これは、党中央の方針でありコミンテルン決議である「早期のソビエト政府の樹立」に基づいておりました。共産党は1931年11月に広西省瑞金(Ruijin)に中華ソビエト共和国を樹立いたしました。その政府主席に毛沢東 (Mao Zedong) 、軍事委員会主席に朱徳 (Zhu De) を選出しました。そして瑞金が首都と定められました。
 広西省は長江南岸に位置し、南は広東省と接するところです。

 このできたばかりの独立の政権を保持するために、共産党は人民と民族に対して責任を果たしていくこととなります。

 一方、蒋介石は、その方針どおり、紅軍(共産軍)に対する第四次包囲討伐戦を開始いたしました。国民党軍による共産党軍への包囲戦は第一次から第五次まで行われ、この時はその第4番目のものでした。
 
 国民党軍は湖北一帯に展開し、制圧していきます。そして、湖北、湖南、河南(これらの省は黄河下流から長江流域にわたる中央地帯となります)を安定させ、1933年にはいって、いよいよ広西のソビエト区へと進撃を開始いたしました。
 
 共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心とした山岳地帯でした。これにより、ゲリラ作戦等で抵抗いたします。国民党軍は、紅軍の装備は貧弱であるため、軍隊の能力も低いと見くびっていたため、打ち崩せずにおりました。

 ここで戦費について少しふれておきたく思います。内戦に明け暮れる蒋介石政権は、その膨大な戦費を公債に頼っておりました。またこれに加え、いわゆる「幣制改革」が実施され、発行権を持った四大銀行(中央銀行、中国銀行、交通銀行、農民銀業)が潤う仕組みとなると同時に、四大銀行、つまりこれら銀行のオーナーである「四大家族」によって独占されるようになっていきました。

 「四大家族」とは、蒋介石、宋子文 (Song Ziwen)、孔祥熙 (Kong Xiangxi)、および陳果夫 (Chen Guofu)・陳立夫 (Chen Lifu) 兄弟によるものです。蒋、宋、陳の三家は婚姻関係で結ばれておりました。ただこれらの仕組みによる運営は、イギリスおよびアメリカの二大国家資本の承認と援助なしにはできませんでした。このことにより、蒋介石を財政支援する四大銀行は英米に大きな影響を受けざるを得ない状況であったということがわかります。

長征と「八・一宣言」

 1934年にはいって、正規軍、民兵合わせて25万の兵力しかない紅軍は、国民党の圧倒的な軍勢力(約135万)に耐え切れず、まずは瑞金への入り口である広昌が陥落いたします。破壊力のある近代兵器を持って進軍してくる国民党軍は、紅軍兵士は持ちこたえることはできませんでした。

 瑞金の陥落は目前にせまってきます。これにより紅軍は、この年の10月に瑞金を放棄いたします。各地で転戦しながら、退却いたします。そしてちょうど1年後の翌1935年10月に陝西省の呉起鎮に到着します。後世この退却は「長征」と呼ばれることとなります。

 紅軍は始めは8万6千の兵力でしたが、国民党軍の攻撃を受けながら大河や雪山を越え、最終的には8千となっておりました。特筆すべきことは、この「長征」の間、それまでのコミンテルン指導体制に代わって、毛沢東の指導による体制が確立したことです。

 そして、「長征」途中に毛沢東は「八・一宣言」をいたします。これは、1935年8月1日に開催されたモスクワのコミンテルン大会で中国共産党が発表した宣言です。ここで蒋介石と張学良に対して、「内戦停止」と「抗日」を呼びかけました。

 12月には、「日本帝国主義に反対する戦術について」という報告を行います。そして、それまでの「中華ソビエト」を新たに「人民共和国」へと変更することを宣言したのです。

西安事件

 しかしながら、蒋介石はこの共産党の宣言を国民党を陥れる陰謀として受け入れず、ますます「反共」に傾いていきます。そいて第六次包囲討伐戦を展開していきます。ここで事件が起こました。

 まさに包囲網を指揮する将軍である東北軍の張学良と西北軍の楊虎城 (Yang Hucheng) によって、蒋介石は西安で監禁されることになったのです。張学良と楊虎城は、蒋介石の生命を保証するとともに、八項目の要求を発表しました。主たる項目は南京政府の改組と内戦の停止です。

 共産党は、後に西安事件と呼ばれるこの事件について、あらゆる状況判断のすえ、八項目要求を蒋介石にのませることを方針といたしました。そこで党内で最も頭脳明晰で説得力を持つと見られている周恩来を西安に送り蒋介石と対面させることといたしました。

 12月25日に事態は急転直下、解決いたしました。蒋介石は周恩来の説得に心を動かされました。八項目の合意を行い解放されることなります。そしてこの日のうちに蒋介石は夫人の宋美齢とともに南京に戻りました。

 夫人の宋美齢は西安を攻撃するという国民政府に強硬に反対をし、西安に来て張学良や周恩来とも面談しておりました。また、張学良も共に南京に向かい、自ら進んで軍法会議にかけられることとなりました。

 翌1937年3月、共産党は国民党に向け書簡を提出いたします。そこには、内戦停止、一致抗日、言論・集会・結社の自由などが認められるのであれば、共産党は以下の四項目を実施するという内容が書かれておりました。それは、
1. 反国民政府的な武装暴動は取り行わない
2. 労働民主政府(ソビエト区)を中華民国特別区政府と改称し、紅軍を国民革命軍と称する。
3. 特区政府内では、普通選挙による民主制度を実施する
4. 地主の土地没収政策を停止し、抗日民族統一戦線の共同綱領を実行する

 これに対して、国民党は従来の対共産の姿勢は表向きは変えることはしませんでしたが、事実上はこれら四項目を承認いたします。これにより「一致抗日」の気運が全国に広がり始めることとなりました。

皇道派と統制派

 昭和初期の日本陸軍は大きなうねりの中にありました。満州事変を引き起こした陸軍は、この事変以降、二つの派閥に分裂していきます。皇道派(国粋派)と統制派(親ソ派)です。統制派の永田鉄山参謀本部第二部長が対ソ連戦にあたって、まずは支那をたたかなければならないという「対支那一激論」を展開します。これに対して、皇道派の荒木貞夫陸相は、対支那戦は英米を始め世界を敵に回すとして、反論します。

 ここで注目されるのは、北一輝の「日本寄贈法案大綱」です。皇道派の青年将校たちがこれを学び支持します。これは、日本の貧しい窮状を救うには、「改造」が必要とするものです。このために、天皇を担ぎ出し、大権を発動し、軍部が政治や経済を押さえてやる必要がある、というようなことを謳ってありました。

 これに対して統制派の将校たちは、「国防」を根本的思想に置き、日本を強固な軍事体制国家にすることの必要性を説きます。

 陸軍中央は統制派で固めれらていた1935年(昭和10年)8月に大きな事件が起こります。陸軍省の軍務局長室に皇道派の相沢中佐が乗り込んできて、永田鉄山少将に軍刀で切りつけたのです。統制派の永田少将は斬殺されました。相沢中佐はこの後軍法法廷にかけられ、翌年死刑判決となり執行されました。

 これを契機として北一輝を支持している皇道派の青年将校たちは国家改造に向けた思いが湧いてきます。娘の身売りが当たり前のように起こる農村の窮状を中央のエリートたちは理解していない。ならば、我々の手でやろう、という思いが急拡大していくのです。


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