ざまぁみろ!第5章         最後のキックボクサー

変調をきたす体
 93年7月、僕は貧乏から逃れるために渡タイした。
5月の試合後、怪我で7月の試合を欠場することになった。
そして、次の試合となる9月のまでの2ヶ月分の生活費が
なかった。タイに行けば生活費はかからない。僕は家賃だけ
残してタイへ飛んだ。丁度その頃、日本で企画した
観戦ツアーがタイに来ることは耳にしていた。僕は、
習志野ジム時代のトレーナーで、現地の会長のアナンに
頼んで試合を組んでもらった。ツアーで日本からやってくる
マスコミへのあてつけでもあった。
 ツアーにぶつかる2週間後にサムロン・スタジアムで、
ペットガームという南タイのスーパーフェザー級チャンピオンと
試合を組んでもらった。契約ウェイトは1階級上のスーパー
フェザー級(58.97kg)リミットだった。減量も順調で、
僕のウェイトはリミットまで残り1kgの61kgまで落ちていた。
 ところが、試合の3日前に、ムエタイの雑誌を買ってきた
アナンが驚いている。発表されたカードに僕の名前がない。

「名前が載ってないぞ」
アナンがプロモーターのところに電話をすると忘れていた
らしい。
僕らはその興行のプロモーターのいるジムに向かった。
「体重計に乗れ」
プロモーターでもあるジムの会長は言った。ちょうど60kg
だった。
「じゃ、こいつとやれ」
プロモーターのジムの選手が隣に立って了承して3日後の試合
が決まった。当日は計量しないという相手側の変則的な約束を
了承してジムを後にした。
「計量がないから食べろ」
ジムに戻って、アナンの言う通りに僕は沢山食べた。
 当日20時、スタジアムに着いた。早めに行くと繰り上げられて
しまう場合を危惧してぎりぎりの時間を見計らって会場入りした。
控室らしい部屋はスコールで水浸しになって使えない。僕は客席で
着替えてバンテージを巻いた。バンテージチェックに行くと相手と
かち合った。
 準備が終わっているというのに、膨らんだ僕の体を見て相手が
突然、やらないと言い出した。プロモーターは慌てて、すぐに
代わりを呼ぶという。準備万端のまま、僕とアルンサックは、
それからしばらく待ち惚けをくらった。客席で、僕は裸にトランクス
1枚で試合を観ていた。

 そのまま4時間待って23時を過ぎた頃、ようやく対戦相手が現れた。
相手は元々試合をする予定だったペットガームだった。23時45分、
放送時間枠ぎりぎりで試合が始まった。

 1ラウンド、離れ際に膝蹴りを心臓にもらって苦しい立ち上がりに
なった。
「心臓の上の肋骨を叩け」
普段の練習からトレーナーのアルンサックはしつこく言っていた。
顎を叩けば倒せるし、腹は苦しいけれど、心臓の上とはいえ肋骨を
叩いたって、僕は半信半疑だった。膝蹴りを心臓にもらった瞬間、
僕はそのことを思い出した。始めは面白半分で僕に賭けていた客も、
次第にいなくなって客席は大人しくなっていった。3ラウンドからは
相手の応援もなくなった。掛け率は40対1まで開いていた。
客の目には僕の逆転は不可能で、もはや賭けにならない状態だった。
しかし、次のラウンドに入って蹴り貯めしていたローが効いて
4ラウンド大逆転KO勝ちをした。

「心臓が苦しい」
試合が終わって、医務室に場所を移した。
「大丈夫、折れてない」
リングドクターは、折れ曲がって出ている肋骨をさすって
自信たっぷりに言った。笑うことも、咳払いすることも痛い。
翌日、アルンサックに大きな病院に連れて行ってもらった。
そこでも、やはり折れていないという。前日のファイトマネー
2千バーツ(当時、日本円で8千円)はレントゲン代と
タクシー代でなくなった。前日、自分に賭けることを
忘れていた自分を悔やんだ。賭けていれば約32万の儲けだった。
タイから帰国する前に9月の大会の欠場が決定して、僕の文無し
生活が続くことも決定した。帰国して病院に足を運んだ。

「折れてるよ、もう、とっくにくっつきかけちゃってるけど」
僕の肋骨は折れたままくっついて、今も飛び出している。
念のため、決まっていた試合をキャンセルして、次の11月の試合まで、
半年空いてしまうことになった。生活は厳しくなった。けれど、
11月の試合はメインに決まって、ファイトマネーは上がることに
なった。だけど、僕には11月まで暮らす金がない。僕は、
全日本キックから前代未聞のファイトマネー前借りをしてその場を
凌いだ。
 前年7月18日に初防衛戦で負けた前田憲作とのリターンマッチが、
93年11月27日にNKホール大会のメインだと発表された。
前回負けたということと、彼のことが嫌で嫌で仕方なかった僕は、
練習に力が入りすぎて止まらなかった。
 
 当時、習志野ジムにいたデンチャイというトレーナーの要求する
練習の密度は、僕の体の疲労の限界を更に上回って、身体が毎日
悲鳴をあげていた。身体が痛くてもそれが当たり前だと思っていた。
異変に気づいたのは減量と疲労のピークが重なった6日前だった。
 朝、スポーツジムに行く時、夕方、ジムに行く時、自転車のサドルに
跨ると尻が刺すように痛い。夜、帰宅して風呂に入ると浴槽の中に
痛くて座れない。そしてようやく気がついた。風呂上りに肛門に手鏡を
当てて見た。すると、肛門の外側が大きく腫れていた。痔の手術をした
ことがあるジムの先輩に電話をして、症状を話した。

「疣痔だね、そりゃ」
先輩は断言した。翌日、風呂に入ることは愚か、歩くことも
出来なくなった。でも、5日前に公開練習が行われた。ジムに
行くと、マスコミが多数来ていた。僕は練習を休みたかった。
始めに、ジムに入ってリングのエプロンに座ってインタビューを
収録するという。だけど、僕は座ることが嫌だった。痛くない
方の尻に体重をかけて、片手をついて痛い方を支えた。それを終えて、
形だけ軽くシャドーをして帰宅するつもりだった。
尻の肉が擦れるのがたまらなく痛くて、蹴りも、足を上げることも
出来ない。
 バンテージを巻いて、シャドーをゆっくりとしていたら、
デンチャイがリング上でグローブをはめて、張り切ってシャドーを
していた。どうやら、当初から予定していた公開スパーリングをする
つもりらしい。
 テレビカメラが回っていたのでデンチャイはやる気にみなぎって
いた。結局、スパーリングをして、その後、ミットとサンドバッグ
といういつも通りの練習をして、家路に着いた。歩けない、座れない
僕の気持ちと尻は限界だった。
 翌朝、タクシーで以前、先輩が手術したという肛門科に向かった。
「こりゃ、痔ろうだねぇ」
僕の肛門に指を入れて医師は言う。
「今、切ってください」
急いで手術が必要だという医師に懇願する。
「駄目駄目、明日入院で、明後日手術だね」
医師は、優しくなだめるように僕を諭した。
入院はどれくらい必要かという僕の問いかけに、医師は
「早くて10日から2週間だね」と、
何を慌てているのかと怪訝そうに僕を見て冷静に言う。
4日後に大きな試合があるんでなんとか切ってもらえないですか、
僕は懲りずに再び頭を下げた。
「下半身麻酔を打つから、ちゃんと入院してもらわないと
困るね」
僕の願いは叶うことなく、病院を出てタクシーに乗って、別の
病院へ移った。車内では痛くて座れないので、両手をついて尻を
浮かせたまま、次の病院まで30分我慢した。昼頃、地元にある
総合病院に着いた。
 丁度昼休みの時間帯で、僕は午後の診察が始まるまで2時間半、
ロビーの椅子の肘掛に両手をついて尻を浮かせて待った。
尻が痛い。脈を打つたび頭に響いた。
 14時半、ロビーで看護婦の呼ぶ僕の名が響いた。肛門科が
駄目でも外科なら何とかなるだろう、そう思って外科を選択した。
そして、医師に事情を全て話して、切ってくださいと頼んだ。
僕は診察台の上でパンツを脱いで、壁側を向いて膝を抱えるように
して丸まった。看護婦に尻の穴を見られようが知ったことでは
なかった。看護婦が尻の穴を消毒して医師が背後に回った。
「少し痛いよ」
医師の合図と共に僕は悲鳴を上げた。
「だから、少し痛いよって言ったでしょ」
少しどころではなかった。尻の穴に注射されるなんて事は生まれて
初めてで、痛くて我慢できなかった。両腕で膝を抱えながらつねって
痛みを拡散した。痛みは和らぐはずもなく、その後、注射針は続けて
3本肛門に刺さった。麻酔を打ったから痛みを感じないだろうと思った
けど、濁音をつけて呻き声が漏れた。
切った尻の穴に、先の丸い鉄の鋏が入った。僕は、大人になって初めて
声を出して泣いた。大人になって痛みで泣くとは思ってもみなかった。
打った麻酔は効いていなかった。
「はい、2匹いたよ」
尻を出したまま半泣きで膝を抱える僕に、医師が差し出した鉄の皿には、
なめくじのような膿の塊が二つ乗っていた。そして、肛門を縫って、
おむつのような厚いガーゼをして帰宅した。尻は痛かったけれど、
歩けるようになったし座れるようになった。だけど、安心するには
まだ早い。
体重が落ちていない。
 夜、スポーツジムに行って体重計に乗った。4日前だというのに
4kgもオーバーしていた。厚着をしてマシンを使って走った。その後、
バイクを漕いだ。とにかく漕いだ。バイクを漕ぎ終えて降りると、
サドルには血がついていた。後ろを振り返ると、尻の辺りは血が染み
渡っていた。
 ガーゼから染み出て、パンツは愚かズボンにまで血が染み込んでいた。
でも、恥ずかしいなどと思っている余裕はなく、僕はそのまま汗を
かき続けた。更衣室で着替える時にあまりの出血の量に驚いた。それを
見て、生理になった自分を想像した。その日、1.5kgを落として、
残り3日で2.5kg、おむつのようなガーゼをつけて残りを無事に
走って落とした。
 当日、57.15kg、リミット丁度で計量にパスした。その後、
ジムの後輩と焼肉屋で雑炊を食べた。食後に一度、部屋に戻って仮眠を
して、夕方、待ち合わせをしてNKホールのある舞浜へ向かった。

「手出して」
電車内で、後輩の手の上にチョコボールを振ると3個出た。もう2人の
後輩の手にも3個出た。
「次も3個出たりして」
自分の掌にも3個出た。
「今日は3ラウンドで決まりだな」
僕たちは車内で笑った。NKホールは初めての会場だった。
そのため、控え室の心配をしていた。でも、無駄な心配に
終わった。
メインの僕には個室が与えられていた。トイレもシャワーも
控え室の中にある。おむつの今年が誰にもばれなくて済んだことが
精神的に大きかった。
しかし、まだ問題は残っていた。
 ファールカップという鉄で出来た金的の防具は、一度、
急所にはめてからふんどしのように両脇と股下を通して後ろで
縛る。
切開した肛門が縛り上げられる。僕はその紐に耐えられるかが
不安だった。前日までの
ようにサポーターパンツの中におむつをしてファールカップを
つけた。
 セミが終わって、メインの僕の出番が来た。会場が暗くなって、
入場テーマが鳴り響いた。僕は花道を下を向いて歩いた。今度は僕が
挑戦者として先にリングに上がった。いつもと違う景色に広さを
感じながら、リング中央から四方にお辞儀をした。
 3ラウンド49秒、離れ際に右肘が顎を打ち抜いて、1年前の屈辱を
晴らした。KOでタイトルを奪回して、意気揚揚と控え室に戻って
パンツを脱いだ。肛門は無事だった。その後、少し休んで手術をした
かった。
 しかし、すでに次の試合が2ヵ月後に決まっていて、休むことは
出来なかった。身体と反比例して、この試合を切掛けに僕の身の周りは
騒がしくなり始めた。
 
一千万プレーヤー
 「前田に勝ったら、来年から契約金として年に1回、50万から
100万、立嶋にやる」
 この試合の前、全日本キックの事務所で、社長は言った。
「次、勝ったら来年から契約金もらえるんすよ」
試合前に取材に来た東スポの記者に自慢した。それまでの収入から
したら嘘みたいな大金だけど、他のプロスポーツに比べたら恥ずかしい
くらい少ない。だから、僕は金額を知りたがる記者に人差し指を
1本立てて、
「こんだけもらえるんすよ」
そう自信たっぷりに言い放った。
「立嶋、栄光の年俸契約第一号に」
試合後、東スポを見たらそんな見出しがついいていた。それを見て
驚いた。0が1つ多い。僕の人差し指を1千万と勘違いした記者が、
連盟に確認を取ったところ、社長の引っ込みがつかなくなったらしい。
こうして僕は、キックボクシング界初の年俸契約選手になった。
その額、なんと1200万、稼げない競技で大金を勝ち取った。
 94年1月、僕はさらに知名度を上げようとヌードになった。
一般紙から「フライデー」も撮影に来て、それが格闘技通信の表紙に
なった。4月の試合のポスターにもなって、当日、後楽園ホールに貼り
出された。その、僕の身体を張った売名行為に反響はあった。
「立嶋、いいケツしてるわね」
薔薇族からだった。ホモ雑誌に僕のヌードが掲載されたという。

不本意ながらも僕は前年度、93年の年間MVPと年間最高試合賞を
受賞した。自分にとって納得のいくものではなかった。怪我で2度
欠場もして、満足のいく試合というのはタイで勝った試合だけだった。
NKホールでの前田戦も、結果がよかっただけで、試合のできる状態
ではなかった。でも僕は、袴まで履いて表彰式に出席した。
 トロフィーや賞状が欲しかったわけではない。ファイトマネーが上がる
ことが嬉しかった。ようやくプロになった、そう実感した。公共料金滞納をしてきたこれまでとは違う。胸を張って、職業はキックボクサーだと言う
ことが出来る。怪我をして欠場しても生活に困ることはない、これが一番
大きい。これまでのことを考えれば夢のような生活が待っていた。
 試合をして、僕の試合を観に客が沢山入って、まともな生活が出来る。
そんな当たり前の日々が僕を待っていた。契約といっても契約書を交わさ
ない口約束だった。でも、口約束だろうと試合してある程度の金がもらえ
れば、僕はそれで満足だった。たとえ口約束だろうと、頑張ればもっと
もらえるだろうと信じて疑わなかった。
 実際、1200万をもらったことは一度もない。確かにファイトマネーは上がったけれど、その金額はマスコミ用で、実際はもっと少ない金額を複雑な支払方法でもらっていた。まず、生活費として1ヶ月30万、そして1試合につきファイトマネー100万、その中で源泉10万、チケット代20万分引かれた70万が僕の取り分なのだけど、その70万も複雑な方法で
もらう。ジム側と連盟側の2手からもらうことになっていた。連盟が一度、ジムに払い、ジム分は会長から30%引かれた額が僕の手元に来る。
そして、合計100万にならない残り分を連盟からもらう。手取りにすると、大した金額ではない。そして、1年が終わる頃に全日本側の計算で1200万に達していない分を一括で受け取る支払方法だった。
 それまで売れていたチケットは全く売れなくなった。当時、僕の試合は
いつも満員で、立ち見のチケットも手に入らない客がいるほどだった。
だから、試合が近づくと電話がよく鳴った。
「チケットちょうだい」
「どうせ1200万もらってるんだろ」
忘れた同級生たちは、実家に電話番号を聞いて電話してくる。別に売れ
なければ売れないで撒いた。それだけ名前が売れたんだと素直に喜んだ。
他の選手よりも金をもらっていることは事実だし、間違いなく生活もよくなった。              
「お前のファンの先生が話したがっているから明日、職員室に電話してこい」
小学校時代のサッカー部の顧問から電話がかかってきた。サインを送る
ように、ともいう。
94年の年収は、月30万の12回払いで360万と、
4試合をして200万で計560万、残りは40万をもらって
1200万もらった計算になった。確定申告はしなくていい
という。僕という選手はいないことにして、その分を他の
選手や社員たちに少しずつ上乗せしている計算になっている
からと経理の社員は言う。
 Tシャツやトランクスなどのグッズの売り上げの報酬も
もらっていない。その年発売した、ビデオのギャラも1円も
もらっていない。でも、別に不満はなかった。僕は、意外と
他のプロスポーツもそんなものだと思っていた。
         
スランプ
94年4月、インタビューで僕が言い出したことがきっかけになって、
7月に地方に進出することになる。その第一弾の場所が名古屋に決まった。対戦相手は名古屋の選手だった。格闘技通信の発案で、ベースボール
マガジン社から初防衛戦を含んだ僕のビデオ、「立嶋篤史という生き方」を発売することになった。私生活も撮るという。
「なら、その撮影でハワイに行きたい」
わがままを云ってみた。すぐにOKになった。僕は、網膜剥離からはハワイで再起する辰吉丈一郎をどうしても見たかった。撮影なんておまけだった。正直、撮影を含む他のことは何も覚えていない。
 辰吉丈一郎を初めて見たのは、88年のボクシングマガジンだった。
キックボクシングが掲載されている専門誌はなかった。まだデビューして
いない15歳だった僕は、毎月、発売日に近所の書店に買いに行くことが
楽しみだった。夕方、帰宅途中に団地内公園ブランコに座りながらページを捲っていると、モノクロのページに目が留まった。

〈ニュー浪速のロッキー〉
 そんな見出しの2ページの特集だった。舐めるようにその記事に食い
ついた。僕と大して年の変わらない紙面のモノクロの男は、17歳で
社会人バンタム級チャンピオンになったという。その時の衝撃は今も忘れ
られない。
同時に嫉妬の感情を抱いたことも鮮明に覚えている。似ているけれど、
ボクシングとキックボクシングは全然違う。周りの見方も、扱いも違う。
ボクシングにはテレビ中継がある。世界戦はもちろん、国内タイトルでも
深夜とはいえ放送される。キックボクシングには、テレビ中継はもちろん、専門誌すらなかった。活躍すれば評価してもらえるボクシングが羨まし
かった。自分だって、僕はその記事に刺激された。
 試合は3ラウンドKOで辰吉丈一郎が勝った。
「今から、辰ちゃんの部屋に行こうよ」
ホテルに戻って余韻に浸っていると、電話が鳴った。撮影に同行した、
辰吉と親交が深いライターからだった。   
「あいよー」
ノックすると、ドアが開いて目の前に辰吉丈一郎がいた。
海老みてぇだな、それが僕の第一印象だった。思っていた以上に小さく、
手足が異常に長い。話しているうちに心霊の話になって、彼が経験した
話になった瞬間、電話が鳴り響いた。切っても再びかかってくる。
「ラップ音やな」
壁に掛けてある絵の額縁のガラスが、割り箸を折ったように鳴る。
それを聞いて、平気な顔をして辰吉丈一郎が云った。僕は、正直
怖かった。
そのうち、キックボクシングの話になった。調子に乗って、キック界の
現状やジムに対しての不満を述べた。
「それでも、頑張らんといかんのちゃう」
辰吉丈一郎は言った。確かにそうかもしれない、でもこの時の僕には
そうは思えなかった。
 帰国してモチベーションを上げて減量に入った。その少し前から、
自分自身との歯車が合わなくなっていた。名古屋でサイン会やトーク
イベントに出席した。試合まで1ヶ月、休みは一日もなかった。タイ人の
トレーナー2人をジムが試合3週間前に返してしまったことが一番痛かったかもしれない。僕には休みもトレーナーや練習相手もいなくなって
しまった。練習は思い通りに行かない。1週間前までタイに
行って練習した。限られた日数と条件で出来る限りのことをした、
つもりだった。

 異常に暑かった夏を思い出す。名古屋入りする前日、1kg
オーバーしていた。早朝、着込んで走る。和やかな景色の中、
僕だけ忙しない。
体重は全く落ちなかった。走り続けることが出来ない。水分も
固形物も全く口に入れないまま新幹線に乗って名古屋を目指した。
名古屋入りしてホテルでサウナの場所を確認した。体重が量りたかった。
汗もかきたかった。夜、見たこともない景色の中を走る。走りながら
水道を探す。
嗽がしたい。息を吸う咽が渇いて痛い。そして、頭から被って
少しでも冷やしたい。公園を見つけて、頭に水を垂らす。しばらく
しゃがみ込んだまま立ち上がれなかった。
 その後、サウナに場所を移して体重を量った。口に入れないこと
を条件にした、翌朝の体重を逆算した。翌朝、サウナに行って体重を
量った。
やはり少しオーバーしていた。でも、落とせない範囲ではないことを
確認して安心した。

 試合当日、朝、ホテルで計量が行われた。僕は200gオーバー
した。
 パンツを脱いで全裸になってもう一度量る。それでも残り100g
オーバーしていた。5分ほど飛跳ねて、再度、秤に
乗ってパスした。僕はビデオカメラの前で水分を摂り、
桃缶を食べた。その後、場所を移して昼食を食べた。                    前日までの疲れや渇きが嘘のように分刻みで回復していく。
そして、見事に僕の身体は膨らんだ。
 夕方、いつもとは明らかに違う空気を気にしないで僕は会場入り
した。
リラックスしていたのか、それとも緊張を強がって自分自身に隠して
いたのか、間違いなく後者だった。けれど、僕は集中しきれていない
自分をリラックスして調子がいいと勘違いしていた。確かに調子は
よかった。
短い期間ではあったけれど、タイに行って身体を作ることが出来た。
だけど、その時の僕には肝心なものが欠けていた。
そして、いつもとは違うリングにいつものように上がって第1ラウンドの
ゴングが鳴った。
 何かがおかしい、立ち上がりにすぐに気づいた。少し間を取って、
考えながら立て直せばよかったのに、僕はそんな大事なことに気づかないで、尚も強引に中に入っていった。リングが滑る。膝に力が入って、
足の指でリングを噛まないで力んでしまっているから滑ってしまう。
だけど、僕は大事なそれを自覚しようとしないで、いつもと違うリング
だから、そう決め付けて気にも止めなかった。
 そして2ラウンド、無防備に中に入ったところを相手の肘がカウンターで僕の顎を正面から打ち落とした。僕は片膝をリングについた。レフェリーがカウントを取る中、慌てて立ち上がった。さほど効いてはいなかった。
立ち上がってファイティングポーズを取りながら舌で弄るとマウスピースが口の中になかった。少しして、あることを確認した。しかし、噛むことは
出来なかった。肘打ちで折れた差し歯が2本、抜けずに折れ曲がって
マウスピースごと奥に入ってしまった。舌で押し出しても前には出て
こなかった。僕は、口を開けたまま勝負に出た。でも、ビンタのような
ハイキックと手打ちのパンチで3度のダウンをしてKO負けを喫した。
全ては最初のダウンで決まっていた。残りはおまけといっていい。
翌日、新幹線で千葉に帰った。僕の身辺は静かになった。寄ってきた人の
潮は引いていなくなった。試合の勝ち負けや媒体の扱いの大きさで勝手に
友達になって、自分の都合で他人に戻る。当然、この時もそうだった。
負けた僕に対して、練習への取り組み方や選手としての考え方まで指図する人もいた。僕は電話が鳴っても出なくなった。そして、人と会ったり話を
することが怖くなった。
 
 酒を毎日飲むようになった。タイで買ってきた睡眠薬も毎日飲むようになった。そして、精神安定剤も併用した。起きていても眠っていても名古屋での出来事が頭から離れなかった。家の中に引きこもって映画ばかり観て
いた。夜になると、幼馴染の前田と呑みに出掛けた。彼は僕の気持ちを察して毎日のように朝まで呑む酒につき合ってくれた。
 その日も明け方まで呑んで、僕は前田の部屋に泊まった。いつも通り
泥酔したのに、布団の中で倒される映像が浮かび上がる。夢の中で何度も
自分は倒される。そして、目を覚ました。失禁していた。壊れる自分を
実感した。

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これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。