30戦目 1993年8月22日

タイに渡ります。
7月に予定していた試合がなくなって、ファイトマネー
だけで生活していた僕には、生活費がなかったのです。
そして、話題を作ろうと思ったのです。

前年敗けた前田憲作が、ファンや関係者らとタイに行くという
ことを聞いていたので、そこに当てつけて試合をしてやろうと
企みました。
同行しているマスコミも喜ぶかなと思ったのです。

著書に色色記した通りです。
いつものようにゲオサムリットジムに泊まり、備えます。
金がないからファイトマネーの2千バーツ(当時約8千円)は
全部自分に賭けようと決めていました。

タイでは公営のギャンブルでもあります。
試合当日、計量は行っていません。
20時頃、サムロンスタジアムに着きました。


数日前、専門誌に出場するカードの中に自分の名が掲載されて
おらず、会長のアナンと共に、主催するジムに訪れました。
「なら、これとどうだ」

主催者は選手を指して云いました。
お互いに量りに乗って、体重を確認し、なら
試合も近いから計量なしで、という約束をして
戻りました。

なので当日、試合時間に現地直行になったのです。
スタジアム内には既に、社長を筆頭に、連盟役員全員
リングサイドに着ています。
バンテージチェックに行くと対戦相手と遭遇します。
「やっぱりやらない」
相手が云い出して帰ってしまい、振出しに戻りました。

どのくらい待ったでしょう。
トランクス1枚で、バンテージを蒔いたまま客席で
試合を眺めていました。
3時間ほど待ったでしょうか。
眠かったのを覚えています。

日付が変わる少し前、相手になる南タイ・スーパーフェザー級
チャンピオンの彼が登場しました。
リングに上がって、時間をかけて踊ります。
ウォーミングアップ代わりに時間をかけて踊ります。
受けることは15歳の時に確認済みです。
日本人といえばこれですもの。
15歳の時から行っています。
当時もタイでは受けました。
でも翌年、日本でデビューしてからは全然受けません
でした。

当たり前です。
16歳の新人が何やったって受ける訳がないのです。
そして、「和」が受けない時代でした。
ええ、ずっと。
最近ぐらいでしょうか、和が受け始めたのは。
散散馬鹿にされました。

僕がそういう選手だったということも勿論、多多あります。
世の中に喧嘩を売るという表現は大袈裟過ぎて語弊が
あるかもしれませんが、人生賭けてそういうつもりでした。
学歴等、全ての遠回りを世間に面白がられるために、
それを個性を思って自惚れてやって来ました。
キックボクシング人気、引っ張り出したと思うので、
僕の存在が不愉快でもその辺はご容赦ください。

一刀両断。
客の掴みはこれで十分です。
弓を2回弾いて、最後に相手を斬って、盛り上がりました。
自分なりのアレンジです。
そして、第1R開始のゴングが鳴りました。
こんなに波打ってている公式のリングは初めてです。
ぼこぼこしていました。

そして、相手は1階級上の選手だけあって力が違います。
早早と膝で肋骨を折ります。
心臓への衝撃と苦しさ、呼吸しても響く痛みでした。
折れた自覚はありませんでしたが、
ずっと苦しいまま試合をしていました。

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これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。