ざまぁみろ!第1章        いじめられっ子

記述そのものは2008年12月に幻冬舎アウトロー文庫
から出版した文庫本のものです。

「ざまぁみろ!僕はまだ生きている」というタイトルで
2001年秋にネコパブリッシング社から出版しました。
表紙裏に直筆で手紙を記しましたものを載せました。
本全体の記述そのものも下手糞な文章で恥ずかしいですが、
どうしても直筆でメッセージを添えたくて無理いってやらせて
もらいました。

小・中学生が自殺したり殺されたりすると悲しくなります。
人を簡単にいじめる子供なんていじめられてその苦しみを
味わえばいい、そう思います。

自分の居場所が作れなかった子や、仲間外れにされている子や、
やはり似たような立ち位置で苦しい大人たち、我が子が
デビューしたというのに、やめないで続けている47歳の
落ちぶれたキックボクサーが応援してるよ。
転んだら立ち上がればいい。
何回だって頑張れ。

息子と一緒に練習して、一緒に走って、一緒に苦しんで、
そして笑って毎日を送ってきました。
息子なんて僕なんて、まだまだですが、教えるということは
教えながら自分が勉強すること、沢山勉強して今も勉強中です。

自分自身幾度も初心に返り、勉強になりました。

息子が小学一年生の時に僕らは父子家庭になりました。
色色なことがありました。
惨めな10数年でしたが笑ってやってきました。
仕方ありません。
頑張りが足りないからこうなるのです。

子供だけではありません。
大人のいじめの話も小耳に挟むと悲しくなります。
そういう人間が消えてなくなればいいと思うのですが、
神様は不公平です。

どうか、部屋の枕でも殴ってください。
もしくは何かしらを蹴ってください。
殴ったり蹴ったりすることは一番のストレス発散になります。
ストレスは細胞だけでなく自分の心を壊します。



あってもなかったことにしてしまう、
それがいじめ。
そこに存在してもないものにしてしまう、
それがいじめ。
教師はみんな
「うちのクラスにはいじめはなかった」
嘘つけ馬鹿野郎。
見えない振りをしていただけだろ?
拘わりたくないだけなんだろ?
いじめとは、この世から絶対になくならない
ものだ。
肝心なのは自分がいじめられないために
どうするかってこと。
加害者はみんな、罪を感じても覚えてもいない。
被害者はやられ損。
そこでネガティブに考えてしまうと、辛い自分を
どんどん追い詰めてしまう。
その逆境をポジティブに考えて、自分はどうしたら
いじめられないかを考える。
そして自分に自信が持てる何かを始めること。
僕は強くなりたかった。
みんなに羨ましいと思われる強さ、収入、知名度が
欲しかった。
だから、キックボクシングを始めた。
その3つを得て僕を見下した全ての奴に
「ざまぁみろ!」
そう云いたくて頑張ってきた。
中途半端になりかけている奴、いじめられている奴、
他の奴らにはない自分だけの武器(才能)が
あるはずだ。
躊躇しないで今、前に出よう。
もう後ろなんてないだろう?

頑張れ。


      元中途半端な奴代表   立嶋篤史

      
「タコ」「貧乏臭い」
僕を罵った同級生
「やめとけ、どうせ無理だから」
「そんなもんやったって成功する奴は何万人の
うちの1人だからやめとけ」
妥協を勧めた教師。
どうせ続かないと笑った奴、偏差値が大好きで、
勉強がさっぱりの僕を勝ち誇った目で見下ろした
近所の主婦たち、高校に進学しないでタイに行く
僕を冷たい視線で見た近所の団地住人たち。
ざまぁみろ、僕を羨んでも、もう遅い。

偏差値が僕よりも高かったあなたの子は今、
どうしていますか?
偉そうに僕を否定した教師達、あなたのイエスマン
だった生徒達は今、何をしていますか?
僕を罵った同級生達、今、どうしていますか
自伝を書けるまでになりましたか?
ざまぁみろ、僕は今、自伝を書いている。

「キックはどうせ」
「キックなんかじゃ食っていけねぇ」
「キックじゃメジャーになれねぇ」
僕を始めから駄目だと決めつけた輩
マイナス思考の同業者。
「お前なんていらねぇ」
「干されても文句言うなよ」
一部関係者。
ざまぁみろ、僕はまだ生きている。


不世出のキックボクサー

「エイト」
「ナイン」
「テン」
ホールに、試合終了のゴングが打ち鳴らされた。
意識を失った訳じゃない。諦めて立たなかった訳でもない。
ただ流れ落ちる血を見ていた。ただ流れ落ちる血だけを
見ていた。止まらないでひたすら滴り落ちる自分の鼻血を見て、
血の赤さを不思議に思っていた。気がついた頃には試合は
終わっていた。泣いている客がいる。僕は心で頭を下げた。
 僕は四方に手を振ってリングを降りた。リング上から言った
「ありがとう」は、60回も応援してくれてありがとうの
ありがとう。みんなの応援のおかげで還暦を迎えることが
出来た意味のありがとう。そう、29歳にして僕は60戦目の
還暦を迎えていた。

 その日、試合前に親しいキックボクサーと控え室の前の
通路で話をした。
「俺ね、今日で60戦目、87年のタイも入れたら61戦目」
「えっ、60戦? 凄いね」
「凄いでしょ」
「何が凄いって、俺、一度も働いたことないもん」
「それで団体一つだけでしょう、凄いよ」
「まあね、働かないでよそ見しないで、もう、
16年よ、俺」
「ずっとフェザーでしょ、凄いよ」
「12年だよ、しかもフェザーだけで57戦」
「そりゃ凄い、ほんと凄い」 
 そういう彼は、9年前には、僕と一緒にフェザー級の
ランキングに名を連ねていたが、今ではウエルター級で
戦っている。彼のように、同じ90年代を戦ってきた
数少ない選手には僕の凄さがわかる。
「60戦も全日本キック一筋で頑張ってきたんだからさ、
10試合100万として600万くらい欲しいね。
せめてロレックスのひとつくらい買って欲しいよ」
顔を見合わせて僕らは笑った。そう、僕は不世出の
キックボクサー、誰にも真似は出来ない。
  
幼少時代
 東京都豊島区、1971年(昭和46年)12月28日17時50分、
僕は産声をあげなかった。何でも、母体の中の膜に包まれて
一緒に出てきたとかで、母は死んでいると思ったという。
次の瞬間、膜が破られてようやく産声をあげた。これが
まだ名もないキックボクサーの誕生だった。
 丁度その頃、父は麻雀に夢中だった。いまだに、何か
あると、母はその時の愚痴をこぼす。大きな腹を抱えながら、
当時2歳の姉の手を引いてタクシーを呼んで家の鍵をかけて
から病院に行ったのだから無理もない。我母ながら大した
根性だと思う。
その時の話になる度に決まってバツの悪い顔をする父に最近、
少し同情している。
 大人になって訊いてみると、その日は珍しく大勝ちしたのだと
父は笑っていた。
 こうして立嶋家に念願かどうかはわからないけれど、長男が
誕生した。
 我が家は、並みの家庭だった。靴下はいつも穴が開いていて、
丸襟のシャツのボタンは右前で、パンツの前は開いていない。
そう、いつも姉のお古を着ていた。飯は豚肉とピーマンを
塩コショウで炒めた通称豚ピーの登板が多く、たまに
中華鍋一杯のナポリタンを作ると3日は食べた。カレーライス
だと1週間は続いた。
朝昼晩と卵かけご飯のみが3日続いたこともある。
 ステレオなんかない。動物園や遊園地に連れて行ってもらった
こともない。家族旅行もしない。割り箸は洗って使っていたし、
歯ブラシを取り替えるのは1年に1回正月だけだった。
70年代はそれが普通だった。
 おもちゃは、母が毛糸で作ったぬいぐるみや、ヤクルトの
容器に毛糸で服を着せて、手足を付けた物を与えられたけど、
僕はそれには目もくれず、外で砂遊びばかりしていた。

 縁側の下にあったおもちゃを拾った。僕は嬉しくて
遊んでいた。しかし、そのおもちゃを母が取り上げた。
「○○ちゃん(隣の子)のだから返しなさい」
 取り上げられた意味がわからず僕は号泣した。2歳時の
この記憶が今のところ一番古い。
 でも、忘れていたことを試合前に突然、思い出すことが
ある。試合中のことや、KO負けして覚えていない試合、
小学生の時の先生との会話や何気ないホームルームでの
出来事などを、まるでジグソーパズルの隙間を埋めていく
ように、色や匂いまでも思い出す。
そのうち生まれた時のことまで思い出すかもしれない。
 4、5歳の頃、姉と遊んでいて、家の前の階段から落ちて
激しく頭を打った。傷口が開いて頭蓋骨が見えていた
という。家に帰ると父は血相を変えて、僕の頭にタオルを
1枚巻いて片手で僕の頭を抱えて自転車を漕いで病院へ
向かった。
 その間、頭を抱えられた僕は鯉のぼりの鯉になった。
その傷は今でも残っている。今となっては、沢山禿げが
ありすぎてどの傷かわからないけれど。

 まだ幼稚園に上がったばかりの頃、耳鼻科に足を運んだ。
「人殺し!」
 あまりにも痛くて僕は叫んだ。母は、先生に酷く怒られて
僕は出入り禁止になった。母はすり減るほど頭を下げていた。
 僕は実に素直な子供だった。他の病院でも、
「このやぶ医者!」と叫び、出入り禁止になった。僕は実に
元気な子供だった。幼稚園ではよく廊下に立たされた。でも、
僕は大人しく立っているような子供ではない。その都度、素直に
そのまま帰宅した。
 僕が何か悪いことをすると、母はブレーカーを下ろして家の中を
真暗にする。それでも駄目だと、近所の森の中へ連れて行かれ、
柔道の帯で木に縛りつけられた。そんなことがあって、僕は暗所
恐怖症になった。そして、罪のない柔道が嫌いになった。

僕はタコ
 3歳の頃、千葉に引っ越した。僕は、同じ団地に住んでいる
小学校低学年の子たちといつも遊んでいた。
自分達が手を汚したくないことは、一番下の僕に命令する。
当時はダイヤル式だった公衆電話の上に、赤い小さなボタンがあった。
それを押せば、110番と119番に繫がった。
 僕は彼らの命令を受けてボタンを押した。間もなく、
サイレンを鳴らした消防車数台と、パトカーが団地にやって来た。
しばらくの間、怖くて隠れた茂みから出られなかった。
これが僕の受けた最初のいじめだったのかもしれない。
 今でも夢に出てくるトラウマがある。
「落とせ」
 雑種の子犬を3階から落とせという。年上の小学生の命令に
逆らうのはとても怖かった。躊躇していると、
「猫と同じように落ちるから大丈夫」だと言う。
 3階からだったら猫だって助からないだろうことはわかって
いたけれど、3歳の僕は逆らうのが怖いから、その言葉を
死んだ時の言い訳にしようと覚悟を決めて、落とした。
「………………」
「…………」
「……」
 子犬は死んでしまった。僕は死ぬまで忘れることが
できないだろう。
一生、この時のことを後悔していくのだろう。
「泣いたって許されない」
 泣いて帰った僕に母は言った。
 僕は今、犬を飼っている。3歳のあの時の出来事を思い出す度、
意味もなく「ごめんね」と呟き、飼犬の頭を撫でる。
一生引きずっていくべき3歳の記憶は今もリアルに夢に出てくる。

 数年後、団地前にある作新小学校に入学した。同じクラスには
向かいの棟に住む名良橋晃(元・鹿島アントラーズ・98年W杯日本代表)がいた。
 この頃はまだ、お互いがプロのスポーツ選手になるだなんて
思ってもみなかった。
 
 いつからか定かではない。気がついたときには僕はタコと
呼ばれるようになっていた。僕はそう呼ばれるのが大嫌いだった。
主に、サッカー部で使われた僕の呼称で、自分の名では呼んで
もらえなかった。
小学校を卒業するまで僕は、そう呼ばれ続けた。先生も例外では
なかった。
「お前のせいで、なんで私まで」
 姉はタコの姉ちゃんと後ろ指を指されて、帰宅して僕に
八つ当たりした。みんなにとって僕はどうでもいい奴だった。
 小・中学時代、特にサッカー部でのいじめの主流は無視、
そして命令だった。命令に従わないとすぐに無視をする。
小学校に入学した時から同じクラスのHは、何故か僕を目の敵にした。
小学2年生の時、僕が蹴った石が運悪く駐車場に停車していた先生の
車のタイヤに当たった。それを
偶然見ていたHは僕を脅し、先生に告げ口した。そして、先生は
その現場を見ていなかったにも拘らず僕を犯人扱いした。
 小学1年の頃から、みんな、そのHに媚を売っていた。
「H君の球、すっげぇ速ぇ」
 休み時間のドッヂボールで、みんなはそろって同じ学年のHを
君付けにした。わざとそのボールに当たってご機嫌を伺う奴までいた。
小学生の癖に媚を売るのが上手な彼らは、今では立派な媚上手な
サラリーマンになっているに違いない。
 3年生になってクラス替えをした。Hとは別のクラスになった僕は、
怒涛の媚から避難することができた。けれど、サッカー部で、
Hとは部員同士だった。それでも、この時はただサッカーを楽しんだ。
 5年生になったあたりから僕への風当たりは急に強くなった。
チームにはHの派閥とキャプテンKの派閥が存在した。僕はどちらからも
目の敵だった。Kは、僕と同じ、どちらの派閥にも属さない名良橋を
味方にしようと纏わりついていた。他の部員たちも、サラリーマンとして、中々よい素質の片鱗、世渡り上手ぶりを見せてくれていた。僕は名良橋の
ように特別サッカーが上手いわけでもなく、足も速くない、そして、
何のとりえもなかった。
一番大事な、“自信”がない僕は、絶好のカモだった。

 クラスの中では、サッカー部にいる時ほどではなかった。けれど、
そこにも部員が何人かいて、クラスでそこそこ発言権を持っている
奴もいた。勉強が出来てスポーツも出来て、人気のある学級委員Kも
その一人だった。
 クラスでは、誰もKに対し、楯突くようなことはしなかった。
でも、サッカー部のNに対してだけは声が2オクターブ上がることを
僕は知っていた。2人はいつも一緒だった。
 自習の時間、Kは後ろを向いてNと何やら授業と関係ない話を
している様子だった。その証拠に甲高い声と白い歯が見えた。
僕が注意すると、
「うるせぇ、教えてるんだよ」
 その後、彼は担任に告げ口した。
「学級委員に文句言うなら、お前、やってみろよ」
 何も見ていなかった担任のU先生が、もっともそうな顔をして言った。
 そして通常の1学期だけではなく、卒業までの1年間、僕は
学級委員になった。立候補でもなければクラスメイトの推薦でもない。
誰からも信頼されていないそんな学級委員だった。
 明らかに担任のU先生はKが大好きだった。算数の授業中に時々、
Kはわざと習っていない解き方をして、頭のよさをみんなに見せ
びらかした。
「そこは因数分解の方が、」
 ある日、問題の解き方を説明している先生に、わざと目立とうと
したKが割って入った。
「それは中学校で勉強することだろう」
 U先生はKに対して一度だけ切れたけれど、それでも十分に2人は
仲良しだった。僕を学級委員にした頃、男子トイレの個室の鍵を内側から
閉めるのが流行っていた。当然、中には誰もいない。全てのボックスが
いつも鍵をかけられていた。
「立嶋君、」
 U先生は授業中に僕を呼び出して、トイレに連れて行った。僕は
よじ登って内側から鍵を開けた。僕を教室に戻して、先生は個室に入った。       先生はただ、うんこがしたかったらしい。
「立嶋君、ちょっと」
 U先生はうんこがしたい時だけ、僕を君づけで呼んだ。
 
 サッカー部の練習の時、みんなで先日放送された番組の話題が
始まった。それを見ていない僕は話題についていけなかった。すると、
「じゃ、今からタコ無視ね」
 理由なんて何だってよかった。何かにつけて僕は無視された。
僕に対するいじめは徐々にエスカレートしていった。それを
みんなは楽しんでいた。
 サッカー部員の私服と練習着はジャージ、靴はサッカーシューズが
定番だった。そのジャージが問題だった。
「タコが真似した。みんなタコ無視ね」
「もう、着れねぇよ、これ」
 色違いでも、
「真似すんな」
 メーカーが同じだけでも、色が一緒なだけで駄目、サッカー
シューズでもそう。自転車ですら駄目、何かと理由をつけて
周りは無視した。夕方、学校から帰ると、団地のある棟の前に、
壊れてチェーンの外された僕の自転車に小便がかかって倒されて
いた。朝、学校へ行くと、校門前にある犬の糞の上に、僕の
サッカーボールが置いてあった。
 
 練習中、スライディングをするので、ジャージの膝に穴が開いた。
母は破けにくいようにと丈夫なあて布で継ぎはぎをしてくれた。
「貧乏臭い」
 それを見た部員の連中は、そう連呼した。せっかく縫ってくれた
母に申し訳ないと思いながらも僕は帰宅して責任のない母に
八つ当たりした。自分のことなら多少の悪口も我慢した。
けれど、親の悪口は我慢できなかった。まだ、無視されたほうが
よかった。

ここから先は

12,274字

¥ 300

これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。