ざまぁみろ!第3章 タイ修行

サクセスストーリーの始まり
 ジムに到着すると、2人の日本人が荷物を運ぶのを
手伝ってくれた。1人はタイ語を勉強しに来ている
青島律さん、もう1人はプロのキックボクサー岡林章選手
だった。髭面の怖い顔した岡林さんに練習の時間や内容、
その他細かいことを教わった後、ジムのチャイバダン会長や
選手たちに自己紹介してジムの奥にあるタコ部屋に場所を
移して自己紹介した。
 タイ人はどうも僕の名前を覚えづらそう、というより
呼びづらそうで、
「ジープン(日本)」
 みんな、そう呼称する。国名で呼ばれることがどうも
気分が悪く、
「あー、つー、し」
 自分の顔を指して何度か言ったけれど、
「あー、すー、ち」
 タイ人にはどうも発音しづらいようだ。
「あっし」
 日本で呼ばれていたあだ名で自分の顔を指した。
「アーシー」
 誰かが言った。
「アーシー、アーシー」
 みんなが納得してこれなら呼びやすそうだと
反復した。この日から、僕はアーシーになった。
R・Cって書くんだと選手だったアルンサックが教えて
くれた。やがて、僕の周りにタイ人の輪が出来た。
僕に年齢を訊いているらしい。左手の人差し指を立て、
右手を開いて、
「15歳」
と言うと同時に、
「シップ・ハー」
という声が上がり、みんな驚いていた。当時、タイに
来る日本人は大人ばかりだった。〈15=シップハー〉が
僕の初めて覚えたタイ語になった。
 ふと天井を見上げると、イモリが沢山這っている。
トイレに行くとサッカーチームが作れるほどのゴキブリが
キックオフを待っていた。ジム奥の部屋で、コンクリートの
上に茶色く変色した薄い布団を敷いて眠った。電気を消して、
薄暗い中に這う天井のイモリを眺めて、生温い匂いに
包まれながら、僕は明日を思った。
 翌朝、6時に起床してロードワークに出た。外に出ても
すぐには走らない。コースに出るまで眠たい目を擦りながら、
ゆっくりと歩く。ジムから5分ほど歩いて出た市場では、
適当なもので足を4本作り、その上に置いた平板の上に
魚を乗せて売っていた。吃驚した。とにかく汚く、臭い。
 魚の目は濁っていて、沢山の蝿が集っていた。最初は、
その魚が臭いのだと思っていた。でも、魚ではないらしい。
僕はその腐った臭いの出所が気になって辺りを見回した。
 すると、そこに臭いの原因が存在した。魚を並べてある
テーブルの下で犬が死んでいる。腐って肋骨や顔の半分は
白骨化していた。その上で、何食わぬ顔して中年女性は魚を
売っていた。
 市場を抜けると、3mはある生ゴミの山があって、その中
にも犬や猫の死体があった。僕は、異文化の衝撃を目の当りに
して朝から気分が悪くなった。裏路地を抜けて、ようやくロード
ワークコースに出た。
 通りに出ると、準備体操もしないで皆、走り出した。
僕も慌てて後に続く。走っていると、路上には沢山の死骸が
転がっている。
 蛇や鼠よりも大きな蛙、猫ほどの大きさの鼠の死体が
沢山潰れていた。                      
 処分する人はいないらしい。古い死体は干からびて
アスファルトに貼り付いていた。街灯がない道路だから、夜、
車が轢き殺したのだろう。
 とにかく、その数に僕は驚いた。何もない田舎道を回りながら
走っていくと、空港手前の大通りに出る。大通りをバンコク
市内に向かって3、4kmひたすら直線を走る。でも、この直線が
恐ろしい。
 車が飛ばす。とにかく飛ばす。凄い数の車が100km以上で
行き来している。その脇の路肩を走る。もちろん、ガード
レールなんてない。まるで高速道路を走っているようだった。
 路肩の外側には溝川があり、その向こうにはマレーシア
行きの列車が通っていた。走っている僕らを、列車が追い
抜いていく。
 ふと見ると、列車の屋根に沢山の人が乗っている。
座っている人もいれば、普通に歩いている人もいて、走りながら
気になってしかたなかった。後で聞いた話によると、彼らは
列車がトンネルに入る際、頭をぶつけて死ぬことがあるという。
 この恐怖の直線を3、4km走っていくと歩道橋があって、
そこを上ったところで朝のロードワークは終了する。残り5分
ほど、軽く流してジムに戻る。距離にして12kmほど、
時間にして1時間と少しが毎朝の日課となる。
 
 タイにいて身についた習慣がいくつかある。タイ人は朝の
ロードワークの最中に片手の親指で鼻の穴を押さえて道端に
手鼻をかむ。
 子供の頃テレビで観たマラソンで、アフリカの選手が手鼻を
かんでいたのを思い出した。それを観て、汚いと思っていたことが
あるけれど、いざ間近で見ると、意外と格好よく見えて、真似を
して手鼻をかんだ。
 慣れるまではしばらく、Tシャツ、トランクス、靴下、
シューズ、至る所に鼻水をつけた。今では格好よく手鼻がかめる。
 7時30分くらいにはジムに戻ってバンテージを巻く。そして、
軽めのシャドーから始まりキックミット、パンチミット、それから
サンドバッグを叩く。サンドバッグが終わると、首相撲を30分して
腕立てや腹筋などの補強をする。これが朝のメニュー、終わると
水浴びをして、10時頃に朝飯を食う。
 朝から凄い物を見てしまった僕には食欲がなかった。出される
タイ料理全てが汚く思えて食べることが出来なかった。初めての
食事、口に出来たのは異様に長い米粒だけだった。
 そして、タイに来てもう一つ驚いたこと、トイレに紙がない。
チャイバダン会長は紙が詰まるから使うなという。
では、何で拭けばいいというのか。そう、自らの手で拭く。
小学5年の時、校舎裏のプール脇で野糞した時以来の懐かしい
右手の感触だった。
                        
 練習を終えると、水を浴びてチャイバダン会長の家に
場所を移す。居間の中央におかずを置いて、ご飯を片手に輪に
なって、それらをつまむ。テレビは、日本のアニメがよく放送
されていた。
 ドラえもんや、ハットリくん、一休さんなどを毎日のように
放送していた。でも、完全な吹き替えではない。日本で録画した
テープを郵送して、上からタイ語の吹き替えを被せて放送している
のだろう。だから、台詞になると、音楽などの効果音は消え、
タイ語だけが聞こえる状態になる。
「アーシー、ちぶさを知ってるか?」                          
「ここだろ」
 僕は自分の胸を指して言った。
「違う。ち、ぶ、さ、ち、ぶ、さ」
 しつこく連呼して僕を呆れさせた。
「だから、乳房だろ。日本語で乳房はここ」
 僕も少々ムキになって、強い口調で再び自分の胸を指しながら
答えた。
「ほうら、これがちぶさだ」
 そうこうしているうちにテレビが始まった。彼が自信たっぷりに
指差したテレビには、長与千種が映っていた。当時のタイでは
日本の女子プロレスが大人気だった。
 食後、ジムに戻って洗濯をする。もちろん、洗濯機などない。
たらいに水を入れて手で洗って干す。それが終われば午後の
練習まで自由時間になる。近所の雑貨屋かミシン屋が選手たちの
溜まり場だった。
 ミシン屋といってもミシンを売っているわけではなく、
地方から何人かの女の子が出稼ぎに来てミシンを使って衣類を
縫う作業をしている。
 ミシン屋にはテレビが置いてあるので、ボクシングの世界
タイトルマッチやムエタイの中継がある日はそこに溜まって
観戦した。
 雑貨屋では1バーツ(当時6円)の棒アイスや、やはり
1バーツのカンナで削ったカキ氷が、僕の朝練後のお楽しみ
だった。
 適当に遊んでから昼寝をする。15時からの午後の練習は、
まず近所3周(6km)のロードワークから始まる。戻って
バンテージを拳に巻いてシャドー、月・水・金はシャドーの
後にスパーリング、その後は朝と同じメニューを行った。
 日本にいた時も同じようなメニューだったので違和感は
なかったけれど、1ラウンドがとにかく長い。日本では
1ラウンド3分のインターバル1分で練習していたけれど、
タイでは1ラウンド4分のインターバルが30秒だった。この、
1分長くて30秒短い時間に慣れるまでが大変だった。
 18時半くらいに午後の練習が終わって、水浴び、旨くない
夕飯、そして自由時間、雑貨屋かミシン屋で屯して21時に消灯、
これが1日のスケジュールだった。

会長と娼婦とパタヤビーチ
 2日目、朝のジムワークが終わった頃、会長がやって来た。
「篤史、海行くぞ」
 会長は言う。練習があるからと、困っていると、
「俺から、チャイバダンに言っておいてやるから支度しろ」
 ジムの前には、胡散臭いタイ人の通訳がいて、通りに出ると
タクシーが待たせてあった。車の中には成田から一緒の会長の
友達と、化粧臭い娼婦2人が座っていた。会長が戻ってくると
タクシーは出発した。 
 間に女2人を挟んで、会長と会長の友達は両窓際に座って
女の肩や足を触っていた。僕と通訳は助手席に座った。
 運転手を入れて7人乗りでパタヤに向かった。着くのに3時間
以上かかった。すでに昼を過ぎていた。ホテルにチェックインして
部屋に入った。ダブルベッドの部屋で、僕と会長と娼婦が同じ部屋で
会長の友達ともう1人の娼婦が隣の部屋に入った。僕は噂で耳に
していたパタヤビーチが見たくて、一人で行ってみた。どんなに
綺麗な海かと思ったけれど、なんてことはなかった。
 夕食は、高そうなシーフードのレストランに入った。
 食後、タクシーの運転手と通訳はどこかへ消えた。部屋に入って
シャワーを浴びて、少しくつろいで思った。自分はどこに寝るの
だろう。
「みんなで一緒に寝る」
 会長は言う。会長を中央に挟んで、僕とタイ人女性はダブル
ベッドに3人で横になった。

「おい、篤史」
 少し寝かかった頃、仰向けで横になっている僕の足を
会長が蹴った。起きていたけれど、蹴られたことに腹を立て、
寝た振りをしていた。
「寝たのか、おい」
 会長はしつこく足を蹴った。すると、
「大丈夫、寝てる」
 独り言を呟いて納得をした。薄目を開けると、僕に背を
向けて会長が女と抱き合って激しく舌を絡めていた。見たくない
ものを見てしまったという気持ちと、続きを見てはいけないという
気持ちが絡まったまま、そのうち本当に眠ってしまった。
 翌朝5時、会長がまた足を蹴って僕は目を覚ました。
 眠たそうにしていると、
「走って来い」
 遊びに連れてってやる、そう言ったのは会長だった。
「靴、ないですよ」
 僕には、ジムから履いてきたサンダルしかなかった。
「だったら裸足で走れ」
 僕は海パンに裸足で外に出て走った。だけど、足の裏が痛い。
 海まで出れば裸足でも大丈夫だろうと思って道路を横断した。
 砂浜を40分ほど走ってホテルに戻り、部屋のドアをノックしたが
反応がない。強めにもう一度叩くと、中からバスタオルを体に
巻いたタイ人女性が出てきた。すると、ドアの側にあるシャワー
ルームの扉が開いた。
「誰か来たのか」
 僕に気づいていない会長が頭を洗いながらタイ人の女に
日本語で訊ねた。何を言われているのかわからないタイ人女性は
困った顔をしていた。少しして、迷惑そうな顔をして会長が
出てきた。
「これやるから、あと1時間時間を潰して来い」
 会長は一旦、部屋の奥まで行って、ズボンのポケットから
10バーツ(当時60円)を取り出して僕に手渡した。
 汗をかいたTシャツに海パン、それに裸足のままだったから
歩きたくもなかった。道端で売っていた、
 1本5バーツのコーラを2本飲んで、1時間後にホテルに
戻った。足の裏からは血が出ていた。
「余計な時に戻ってきやがって」
 部屋に戻ると会長は、苦笑して言った。翌日の昼過ぎ、再び
7人乗りでタクシーに乗ってバンコクに戻った。夜になって、
バンコク市内のホテルに着いた。会長や娼婦たちはタクシーから
降りた。
「篤史、ここまででいいから」
 会長は降りようとする僕を制した。タイに来てまだ3日の
僕にはタイ語も道もわからない、強引な身振り手振りで運転手に
説明して、ジムまで行ってもらった。翌日からまた練習漬けの
生活に戻った。
 パタヤから戻って2日後、体調がおかしくなった。腹が痛い。
2日間で体重が6kg落ちた。どうやら生水に当たったらしい。
絵の具のような緑色をした、水っぽい粘土状の糞が出た。
 辛い。飯は食えない、けれど腹は減る。だけど、腹は痛い。
困っていたら岡林章さんがバナナや菓子パンを買ってきてくれた。
日本から持ってきた正露丸は効かないのに、章さんからもらった
タイの薬は効いた。不思議だけれど治った。
 体調がよくなったので、市場に果物を買いに行った。トマトを
1個買った。Tシャツで雑に拭いて、大きく一口かじる。トマトは
こう食べるのが一番旨い。しかし、齧った途端、口の中に苦味が
広がった。不思議に思って見てみると、トマトの中は空洞で、
頭のなくなった芋虫がワンルーム生活を満喫していた。とにかく、
食事には悩まされた。
 ジムの朝飯が食えない僕は、朝練の後、市場に向かった。
辺りを見渡すと、模様のない真黒なボーリング球のような西瓜を
見つけた。なんと、1個10バーツ。早速買ってジムに持って帰り、
たらいに水を張って入れた。
 昼の休憩時間、寝静まった頃に起きて、息を殺して洗濯場へ
行く。命の球をたらいから取り出して、脇に捨ててあるペプシの
1リットル瓶で割って食した。隠れて食べる西瓜は旨かった。
この日を境に、毎日、西瓜1個が僕の昼飯となった。タイでは
マンゴーやバナナの木が、どこの家の庭先にも植えてある。夜中、
竹の棒を使って、人様の庭のマンゴーやバナナを盗んで食べた。
これがまた旨い。

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これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。