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吾奏伸の大局観③「美味しんぼ」を俯瞰する

週刊ビッグコミックスピリッツに連載中の人気漫画・美味しんぼ「福島の真実編」について、思うところがあるので大局観シリーズの第三弾としてリリースします。「福島県には(放射能に汚染されているから)住めない」「鼻血が(福島を取材したせいで)出た」というニュアンスの台詞が散見されるため、作品が風評被害をあおっている=この作家がいわゆる放射脳(極端な反原発論者)である、という批判が世間を湧かせている。一方で作品を擁護する立場から、表現の自由は保証されるべきだという意見もある。いずれの主張も本質を外し気味だと思うので、私なりの見解をまとめておきます。ちなみに私は「福島の真実編」がスタートした単行本第110巻と、週刊誌の20号、22・23合併号、24号に目を通しました(漫画喫茶にあった分はこれだけだったので)。

まず第一に、単行本第110巻をちゃんと読めば、作者が単なる放射脳ではないことと、風評被害を煽る目的がないことははっきりとわかります。わかるのですが、ある程度の読解力を必要とすることもわかります。誰が読んでも同じ意見に至るかは別問題です。不愉快に思う人も、やはり一定量いるでしょう。たとえば物語の中で、「ひばくして鼻血が出た」と主張する前・双葉町長は福島県を出た実在の人物で埼玉に住んでおり、福島が住むべき土地ではないと主張して、だから町長を辞めさせられたとまで言いますが、その証言を山岡(本作の主人公)は東京都内で聞きます。ここはポイントです。というのも、山岡たちは福島県に何度も足を運び、復興に携わる漁業や農業の従事者=福島に留まる人々に取材を重ね、時には「美味しんぼ」らしく地産の名物に舌鼓を打ち、安全であることをアピールしている。そんな場面においては、福島を離れ難い住民の願いが切実に描写されている。大人の読み方をすれば、「東京で取材した前・双葉町長の発言」は、そのままストレートに「放射能が怖くて福島を逃げ出した人間が自らの行為を擁護する論理」であるという事を、このマンガは包み隠さず記しています。原作者は綿密に取材を重ねていると公言していますから、おそらく前町長について東京で取材したというところまでが事実なのでしょう。そう考えると、片手落ちというイメージはまるでなくなります。また、主人公の山岡とその父親である海原雄山まで(取材が原因で)鼻血が出たと思わせる描写があります。これはやりすぎだろうと思いますが、医学的な見解は分かれているとはっきり断った上で、放射能漏れの影響によってノーマルな水分子が壊れて過酸化水素など有害な物質を増やし、それが鼻の粘膜を損傷させたという学説を紹介している。その学説も真実とは断定していない。総じて、創作としての偏りはある(論文じゃないですからネ)にせよ、一定の配慮はなされていると思います。ただし、配慮していると感じられるのは私が単行本第110巻を読んだからだろうというのも事実です。全体の文脈を把握しようと努めたからこそ、福島に留まりたい住民の立場と、留まりたくない・留まるべきでないと主張する立場双方の意見が描かれていることがわかるし、欄外まで詳細に読み込もうとするからこそ配慮を感じることはできるが、ぶつ切りで発表される週刊漫画誌というフォーマットや、細かな注釈まで読み込みたいと思わないライトな読者層を巻き込むであろう青年誌(ビッグコミックスピリッツ)のポジションは、この文脈の受け皿として不適当ではないか、とも思います。ここは後でもう一度論じたい。

さて。一旦、目線を変えて——表現の自由を盾に取り作者と出版社を擁護する主張に「そんな単純じゃないぜ」と反論したいと思います。実は、創作が常に自由であるべきだという主張と、その創作物がどういう形で他人の目に触れるべきかという議論は別次元で語られるべきものです。一般論として芸術家の創作に限らず、人がどのような思想信条を持とうが、それを批判したり変更させたりといった干渉は人の尊厳を奪う行為であり、自由は保証されて然るべきです。加えて、そういった信条を込めた漫画が存在することになんら問題はない。しかし、それが週刊ビッグコミックスピリッツに載る看板グルメ漫画美味しんぼの一部分であるという事情には別種の問題が含まれる。一般的に、個人の自由という概念は公共の利益という概念と対立することがあります。すなわち「スピリッツに連載している『美味しんぼには公共性があったのではないか。あったとすれば、この表現は公共の利益に反するのではないか」という議論が必要になる。

難しいので例を示しましょう。あなたが毎日会社帰りに通うスーパーマーケットがあったとします。なんとなく流れてくるBGMを、あなたは常々耳にしていた。しかしある日スーパーに立ち寄ると、選挙に立候補したスーパーのオーナーが政見放送を延々と流していたら、どう思うでしょうか。あるいはオーナーがひいきにするプロ野球チームの応援歌がしつこく繰り返されたら、どうでしょう。個人差はあるでしょうが、私がオーナーなら「客に不愉快だと思われるだろうから、そういった事はやるべきでない」と判断します。やりたくても踏みとどまるでしょう。つまり公共の利益を鑑みて、スーパーマーケットの館内放送が妥当かどうか判断しているわけです。ここで問題にすべきは「政治家の政見放送の中身が正しいかどうか」ではなく、「オーナーがその政治家を身びいきにする自由があるかどうか」でもないし、「プロ野球チームの応援歌の出来不出来」も問題ではないし、「オーナーが特定のプロ野球チームを愛するが故の行為だ」ということも一定の了解は得られるでしょう。しかしスーパーマーケットは公共の場であるかもしれないよ、そこでオーナー個人の趣味で音を垂れ流すということは、公共の利益に反するかもしれないよ……と言いたいのです。仮にオーナーが頑固親爺のラーメン屋のごとく「俺っちの演説を聴きたくねぇってんなら、もうこの店には来るなってんだぃ。てやんでぃ。べらぼうめぃ」というなら、確かに他のスーパーへ行くしかないでしょう。しかし足を踏み入れる前に、あらかじめわからないのであれば客に選択の余地はない。仮にわかっていたとしても(入口に「今日は私の政見を放送します」と張り紙があったとしても)余所のスーパーで売っていないケーキや安価な総菜がお目当てだとするならば、政見放送を我慢してこのスーパーを選ぶということを客に強制する結果にもなる。つまり同意したからといって何をしてもいいわけではない。(「合意したという事実は、その合意の公正さを保証するものではない」という、イマヌエル・カント的な「理性」のお話です)。

週刊漫画誌という媒体は(「美味しんぼ」以外の作品も掲載しているし、それを読みたくて買った読者が、ついでに「美味しんぼ」も読むだろうという意味で)このスーパーマーケットに該当するのではないかと私は考えます。「風評被害を与えるような表現だったかどうか」が問題なのではなく「表現の自由を保証すべき」かどうかが問題でもない。そもそもこういった政治色の強い、しかも長い文脈で語るべき表現を乗せる器として適当かどうか、という事を問題にすべきだと思うのです。じゃあどうすればいいのか。最低限のアイデアですが(これで必要十分とはいえません)「成人指定と書かれている漫画を読んで、こいつはエロすぎるっけしからんと怒る人は(比較的)少ないだろう」という意味で、例えば「スピリッツ増刊・あなたは原発擁護派?反原発派?緊急特集号」と銘打ち、美味しんぼのみならず複数の作品を原発マンガとして同時に掲載し、様々な視点を提示するならどうでしょう。それをあえて手にとる人間は覚悟をもって頁をめくるに違いありません。またその場合、単行本第110巻からスタートする中身をまるごと掲載して然るべきだと思います(ぶ厚くなっちゃうでしょうけど)。ところが現実はどちらの条件も満たさなかった。覚悟をもって頁をめくる人間だけではなく、「さーて新幹線の出張だぜ……五年ぶりにスピリッツでも買ってみるか……わー、知ってるマンガって美味しんぼぐらいだなぁ……ありゃ? なんだこれ……なんだこの青年の主張わw放射脳ワロス」と感じるような読者の手にも渡った。そして福島編の全容を知らないまま、断片的に目撃された。この偶然性と文脈の断絶は、むしろ作品や作者にとって不幸を招きかねない。私が編集長なら、作者に対して「スピリッツへの掲載は見送りたいけれど、増刊号なりといった別枠を作るか、単行本のみで勝負しませんか」と逆に提案するかもしれません。

編集部が掲載に踏み切った理由は、「刺激的な内容で売り上げ増を見込める」と考えたか、もしくは「原作者が大御所で逆らえない」のか、あるいは「連載に穴を空けたせいで売り上げ減につながったら困る」のか、そのいずれかの合わせ技なのでしょう(「美味しんぼ福島編」については一時期休載もあったようなので、三つめは違うかもしれませんが)。というわけで、「美味しんぼで鼻血がどうのこうのっていうけど、作品と作者にゃ罪はないでしょ。でも、どうしてスピリッツにしれーっと載せたかな。だって読む側にすりゃ文脈がズタズタだし、絶対批判されるっしょ? ちょっと売り上げ伸びるかもしれないけど、逆に大御所作家の私的なプロパガンダだと思われて、嫌われるのが落ちじゃん……下手したら作品まるごとバッシングされかねない。俺が編集者だったら、原作者自ら同人誌を作るってことにして、コミティアで売ろうよって言うけどね……ま、出版社は火の車だからそんな余裕ないんだろうな」という理解が、適当じゃないかと感じる今日この頃です。ここまでが大局観です。

ちなみに、作者には風評被害を煽るつもりはなさそうだと書きましたが、別の意図がありそうです。美味しんぼはグルメ漫画として知られていますが、一方で新聞社を舞台にした人間ドラマでもある。第110巻のとある頁で「福島を視察した閣僚(=鉢呂経産相)が死の町という表現を使って発言し、それが風評被害を煽ると、とある新聞にバッシングされた」という実在のエピソードを紹介し、登場人物たちは「メディアを操作する何らかの圧力が働いており、その背景には東電との癒着がある」といったニュアンスをかもしつつ、記者として怒りを露わにする。「臭いものに蓋をして得をする連中」がいるのは許せない、許すべきでないという、ジャーナリズムの正義は何かという問いかけが、鼻血の一件を(真偽は別として)伏せるべきではないという判断につながるイデオロギーとなり、「福島の真実」というタイトルに込められている。と同時に、安全が確認された美味しい食べ物が福島にはたくさんあるという事情も「福島の真実」として立派に描かれている。そう考えるとなかなか骨のある漫画ですし、単行本第110巻を通して読めば、膨大な取材量に裏打ちされた内容であることは誰にでもわかる。たかが鼻血云々で毛嫌いされるのは惜しいし、福島編を最後まで見届けたいというのが率直なところです。おそらく作者は、偶然にも鉢呂経産相と同じ立場に立たされて「負けてなるものか」といった心境にあると思われます。(14年5月15日記)


photo by ASSAwSSIN(MIRAN, 2013)


注)なぜ前町長だけでなく山岡や雄山までが鼻血を出したのか、そこまで表現すべき正当な理由は何処にあるのか——という疑念をお持ちの方は多いと思いますが、私は物語としての必然があると読み解きました。どちらかといえばイデオロギーというより文学的な話題に属するため、この流れで論じるべきでないと考え、敢えて詳細な説明は割愛しております。あしからず。




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