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動画から体から無限の粒子へ

SNSに流れ込んで来る情報から、何か引っかかることを見つけたらメモに残す。すぐに検索する。そうしないと次の瞬間には忘れてしまって、ヒマになってしまう。

尋常ではない状況に、慣れてなくてはならないと私はプレッシャーを感じている。一人一人が置かれた状況は様々だ。毎日医療現場に変わらずに電車で通わなければならない人。接触を避けつつ、締め切りのあるプロジェクトを終えるために日々膨大な仕事をこなす人。突然失業者になってぼんやりしていると連絡をよこす人。置かれた立場は一人ずつ異なっているのだと、自分に言い聞かせなければ、家にいるしかない毎日で、何を糧に日々を組み立てられいいのか、私を支え、私であるところの存在というものがぐらつきはじめ、崩れそうになる。

この状況だからこそ。だからこそ、からこそ、こそ、そ。言葉は押し付けがましく、見えない風船のように私の首元で膨らみ、呼吸を圧迫する。会社、学校、そこでの用事や役割といった外付けのアウトソーシングで自分が何者で何をすべきかを保つ馴染みのやり方を辿れない。

家からあまり移動することのない体はミニマムになって行くのだろうか。筋肉は衰え、皮膚は重力に従い伸びて行くのだろうか。果たして思考は、持久力なく、使ってすぐに電池切れを起こすのだろうか。

比較が役には立たないのだ。ウンウンと唸るようにして沈みきった後に納得した。あのときはできた、きのうはやり遂げたではなく、今日は、今はこうしようとすることに集中しよう。その一瞬一瞬で私が世界に投げかけている何か、もあるはずだ(それを価値と呼ぶこともできるだろう)。

河原までゆき、走る気もせずコンクリートで固められた土手を歩きだす。恰幅が良く、シャカシャカする素材のトレーニングウェアを着ているおじさんが銀縁のメガネの奥からこちらを見やる。「こんにちは」。挨拶されて、私も小さな声でこんにちは、と返す。挨拶をして緊張が何とは無しに緩む。忘れていたこと。距離が近づくわけではないが、挨拶が警戒を緩める。その日は、それ以降、すれ違う人たちに私は少し首をかしげて頭を下げ、会釈する。

「本来、無限であるはずの私たちの存在がいかにして有限なカラダの存在として現れているのか。その探求の情熱なくして、どうして舞踏たりえるだろうか」(由良部正美舞踏 稽古照今①

https://www.youtube.com/watch?v=fW9YY_krlo8)。

体を長く纏ったゆえに、忘れてしまっていた。無限であるはずという言葉から、果てしなく粒子として広がって行く私の存在を想像する。なんて自由なことだろう。そのあと動画の由良部の言葉はもう言葉として入って来ず、動画の由良部は粒子のように私の方に届いてくる。

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