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ラクダを探す:《アル=ガーシヤ章(圧倒的事態章)》第17-20節をめぐって


ワフダーニーヤالوحدانية とは

イスラーム神学では、アッラーの属性を20の必然、20の不可能、一つの許容と整理する。20の必然の筆頭に掲げられるのが「ウジュード(存在)」であり、それに続く、5つの否定的属性、すなわち、アッラーにとっては否定することが不可能である属性、「キダム(無始の古さ)」、「バカー(終わりのない永続)」、「(生起物とは相容れない)」、「自存(キヤーム・ビザーティヒ)」の属性の一つに、「ワフダーニーヤ」がある。「一である」ことを表す動詞「ワハダ」の派生語の一つである「ワハダ―ニー」を女性名詞にして概念化した形となっている。「一であること」であるから、「一性」と訳すことができる。イスラームの教えの根幹をなす「タウヒード」は「ワハダ」を他動詞化する形「ワッハダ」(一にする)の動名詞形にあたる。したがって、「タウヒード」は、「すべてを一に帰すること」となる。「ワフダーニーヤ」には大抵イダーファで「アッラー」ないしその意味の言葉を付す。したがって、神学的に言えば、ワフダーニーヤとは「アッラーが一つであること」に他ならない。

 

《言え、アッラーは一なる御方》

このワフダーニーヤであるが、クルアーンの中では、その概念は幾度となく言及され、あるいは説明が施されている。

たとえば、《言え、彼はアッラー、一なる御方。アッラーは永遠者。何も産みもしなし、何かから産まれたのでもない。彼に並べうるものは何もない》(純正章)

あるいは、《ヤアコーブの臨終のとき、あなたがたは立ち会ったが、彼がその子孫に向かって、「私が亡き後、あなたがたは何に仕えるのか。」と言うと、彼らは「私たちはあなたの神、イブラーヒーム、イスマーイール、イスハークの神、唯一の神(アッラーに)仕えます。彼に、私たちは服従、帰依します。」と言った》(雌牛章133節)

アッラーのワフダーニーヤを扱った聖句は、クルアーンの中で、40を超えるという指摘があるが、それらは、これらの聖句のようにアッラーが一つであることに直接言及している聖句である。

 

《ラクダを見ないのか?》

「アルガーシヤ章」の17節から20節をもう一度振り返っておこう。 

《彼らは、ラクダを視ないのか。いかに創造されたのかを。天を(視ないのか)。いかに持ち上げられたのかを。山々を(視ないのか)。いかに据えられたのかを。大地を(視ないのか)。いかに広げられたのかを》

「アルガーシヤ章」17-20節

 ここには、「一」や「一であること」にかかわる言葉、すなわち「アハド」「ワハダ」およびその派生語は一つも含まれていない。それにもかかわらず、これもまたアッラーのワフダーニーヤの証明であると、サーブーニーは説明していた。つまり「1」とは言わずに、アッラーの「一性」の論証方法が示されているということだ。

なぜ、ラクダの創造と天が高くあることと、山々がどっしりとしていることと、大地が広げられていることが、アッラーが「一であること」を論証するのか。少なくとも、ラクダという家畜になじみのない文化圏なり時代なりに生きる者、ラクダと言ったら鳥取砂丘か伊豆大島を想起する者にとっては、アッラーの唯一性との間にまだ距離があると言わざるを得ない。

 

家畜の効用

とはいえ、数ある家畜の中でも、なぜラクダなのであろうか。至高なる御方は言う。

 《われが手ずから彼らのために創造した家畜を彼らに所有させているものを見ないのか。われは、それを彼ら(の用)に服させた。それで、彼らはこれに乗り、そして食べる。また彼らは(その外にも)いろいろそれを利用し、また飲み物を得る。それでも彼らは感謝しないのか。彼らは、アッラーの外に邪神を選び何かと助けられようとする》それら(邪心たち)は、彼らを助ける力はなく、むしろ彼らの方が邪神を守るため軍備を整えている始末。》

「ヤー・スィーン章」71節-75節)

あるいは

《また彼は、家畜をあなたがた(人間のため)に創造された。あなたがたは、それらにより暖衣や種々の便益を得たり、またそれらを食用としたりする。夕方にそれらを(家に)駆り戻すとき、また朝に(牧地へ)駆り立てるとき、あなたがたはそれらに優美さを感じる。またあなたがたが自ら苦労しなければ達しがたい国に、それらはあなたがたの重荷を運ぶ。本当にあなたがたの主は、親切で慈悲深い方であられる。》

「蜜蜂章」5節-7節)

このように、ラクダ以前に家畜全般の創造が、すでに驚嘆の対象なのである。

 

アッラーズィーは、これらの聖句を踏まえ、ラクダについて、2つの特徴があるとする。まず、ラクダにはこれらの特質がすべて含まれており、それはあまたの動物の中でもラクダにだけ見られるものであるということ。いま一つは、その1つ1つが最高レベルのものであるということだ。

 

ラクダの奇跡

アッラーズィーは次のように解説する。

 「乳を出せば、多くの人々を潤し、食べ物になれば、多くの人々を食べさせ、満腹にし、乗り物になれば、他の動物では乗り切ることのできない長い距離を渡っていくことができる。これは、それに組み込まれた持続的な移動の耐久力、渇きに対する忍耐力、そして他の動物では耐えることのできない餌で満足する力がある…また、この動物は荷役に利用されることもあり、他の動物では代替ができないほどの重い荷物を運ぶことができる。」

アッラーズィー『大注釈書』第11巻144頁

 

このように、卓越した実利性を備えているというのだ。しかし、それだけではない。「アラブの心に最も深く根付いた動物の一つだ」ともしていて、

 

「そのため、アラブでは、人間の殺害の代償(ディヤ)として、らくだが与えられることがあったし、また、アラブの王たちは、遠くからやって来た詩人に、ラクダ100頭を贈り物として与えることもあった。なぜなら、ラクダの瞳が他のものよりも大きな満足感を与えるからである。」

アッラーズィー『大注釈書』第11巻144頁

そして、至高なる御方の御言葉を引用する。

 《夕方にそれを(畜舎に)連れ戻す時、また朝に(牧場へ)駆り立てる時、汝らはそれ(=家畜)に美を見出そう。》

(蜜蜂章: 6)

 

ラクダに救われる

こうした一般論だけではない。アッラーズィーはラクダにまつわる個人的な体験も披露している。曰く、 

「一度、私は仲間と砂漠に出かけていた時、道に迷ってしまった。すると、彼らは一頭のラクダを先頭にしてそれについて行ったのだ。そのラクダは、丘から丘へ、あるいは一方から他方へと曲がりくねる道を進み、皆がそれについて行った。長い時間がかかったがとうとうそのラクダは道に着いた。その時、私たちはその動物の想像力の強さに驚嘆した。一度(見た)だけなのに、彼の想像力の中でその景色の像がいかに保持されるのか。知者たちの集まりですら正しく導くことができなかった道へ、その動物は導いてくれたのだ。」

アッラーズィー『大注釈書』第11巻143頁

 

彼自身が、ラクダのおかげで命拾いをしているのだ。それも含めて、より説得的に注釈を行なおうとするのがアッラーズィーである。彼は、ラクダの従順さや荷役を行う際の優位性の指摘も忘れていない。

 

「さらに、その特質として、仕事の力が極限的に優れているのとともに、小さい子供のようなもっとも弱い生き物に対しても従順で、よく従う。重い荷物を運ぶ際、一度跪き、それから立ち上がる。これも他の動物にはない。」

アッラーズィー『大注釈書』第11巻144頁

 

運命共同体

筆者も、ギザのピラミッドでラクダに乗せてもらったことがあるが、乗るときには膝をついていてくれるので乗りやすく、そこからラクダが立ち上がる時のイスタンブールの超高速エレベーターで味わったような上昇感(ちょっと大げさか)、そして、一挙に視界が開ける感じは、イエメンの国立競技場の馬(走っているときの疾走感はあった)や、ペトラのロバ(ごつごつとした岩道でも文句ひとつ言わず乗せてくれる「健気さ」は痛感した)では決して感じることのできない爽快感であった。そういえば、ロバの目は、哀愁を訴えてくるけれど、ラクダの目には引き込まれるような魅力がある。表情には癒しもある(もちろん個人の印象でしかないが)。ラクダの肉が滋養に抜群の効能を持ち、乳やヨーグルトは、むしろ薬としての価値のある特別なものだという話もヨルダンで聞いたことがある。ぜひ試してみたいものだ。

このようにちょっと触れただけの異邦人にも魅力的なラクダである。アラブの人々、とりわけ啓示が降った当時の人々にとっては、とにかく特別な存在だったに違いない。上述の注釈を受けて、アッラーズィーは言う。

「実にアラブこそは、ラクダの状態――健康、疾病、利益、害悪――について、もっとも詳しく知る人々なのであり…」

アッラーズィー『大注釈書』第11巻145頁

まさに運命共同体的な存在だったのである。それだからこそ、アラブ人の理性に訴え、思考力に訴えて、創造主の創造の偉大と、その「一性」を示すために、あえて選ばれたということなのであろう。

 

あなたのラクダは?

啓示から1400年。ラクダは今も、遊牧民とともにあって、その能力をいかんなく発揮しているのかもしれない。しかし、あの時、アラブにくだされた《彼らは、ラクダを見ていないのか》の有していた、リアリティと、その啓示をそのムスハフを通じて読んでいる私のリアリティの間に、ギャップがあることは認めざるを得ない。テーマは、イスラームの教えの根幹をなすタウヒードなり、ワフダーニーヤの証明だったとすれば、あの時のあの人々にとっての圧倒的な説得力は、現在の非アラブのムスリムにとっては、必ずしも共有されていないということなのだ。

あの時のアラブ人だったから、ムハンマドを通じて、ラクダが取りざたされたのだったら、現在の非アラブ、しかも預言者の封緘後の人々にとって、何がラクダにあたるのか。すでに預言者はいないので、普遍的なメッセージを伝える者はいないのだけれど、それだけに、様々な事象が浮かび上がってくるのではなかろうか。アラブへの啓示を参考に、自分や自分自身にとってのラクダに思いをはせる。そんな新たな読み方の可能性も示してくれている、圧倒的事態章の17節ではないか。アッラーフ・アアラム。

参考文献:

『日亜対訳注解聖クルアーン』(日本ムスリム協会)
アッラーズィー『アッタフスィール・アルカビール』

タイトル画像:

リビア砂漠(著者撮影)




 


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