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笑いと祈りと元気と

1.信仰の本質

 
《本当にわれら(アッラーのこと)は、あなた(彼の預言者ムハンマド)に潤沢(カウサル)を授けた。さあ、あなたの主に礼拝し、犠牲を捧げなさい》

(聖典クルアーン「潤沢章」第1,2節)

ここでは、クルアーンの潤沢章(108章)の冒頭の二つの聖句に訪ねてみよう。アッラーはムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)に対してこう語りかけた。あなたには、この世でも潤沢に与えたし、あの世でも潤沢に与える。これ以上のない潤沢さでと。
たしかにそうであろう。完全なる人間とされるアッラーの御使いムハンマドであればこその潤沢な現世と来世。だからあなたの主のために祈れ、そして羊を犠牲に捧げよと。
私は長い間この聖句が、宗教の本質をもっとも端的に言い当てたものと解してきた。まず大前提として、神が有り余る潤沢を授けて下さっていること。そして、その確認。だから、それを与えて下さった主に対する祈ることと、羊を犠牲としてささげることが義務として命じられる。礼拝の義務とザカート、つまり施しの義務が重なると。

ムハンマドに、しかし、巨万の富のようなとてつもない、潤沢が与えられたであろうか。彼の人生は、苦難、困難、忍耐といったことの連続ではなかったか。それらに数多く見舞われたことにだれも異論はないはずだ。そして借金を残して亡くなったのも彼である。そうなると彼の人生に潤沢の2文字は何ともそぐわない。

であるとするならば、「アルカウサル」を「この世とあの世の潤沢な富」と解するのには無理がある。むしろもう一つの意味である「天国を流れる川」としての「アルカウサル」であれば、その点の整合性はとることができる。

なぜならば、様々な困難にもかかわらず、アッラーに対する信仰にまっすぐに生き、また人々に教えを説き続ける彼に対して、来世ではアルカウサルつまり楽園を与えると彼を励ましていると読みうるからだ。
そして、どれほど妨害され、迫害されたとしても、祈り、そして、羊を屠れと。

ところで、信者はどうしても、ムハンマドに対する命令を自分に対する命令であると読み替える。楽園は約束されている、だから主に対して祈って、屠れと。

ムハンマドのような完全さを人は持ち合わせているわけではない。したがって、アルカウサルを約束される資格があるのかどうかという問題がまず浮かび上がる。そして、祈り、屠れという部分についても、ムハンマドの完全さには少なくとも私の場合、足元にも及ばない。となると、この二つの節は、ムハンマドに対するものではあるけれど、少なくとも、出来損ない信者の私に対するものではなさそうだ。

2.「ビハイル」は元気のもと

「アルカウサル」の解釈については、実は様々な読み方がある。上で見てきたように、天国の楽園として、天上の川も含めた天国の溜池に限定する読み方の他に、それを「数多くの善(الخير الكثير :善を「ハイル」という)」として、預言者性、書、智慧、知、最後の日の取り成し、やがて到達する水槽、称讃された場所、多くの支持者、敵に対する勝利、多くの勝利など数えきれない、現世と来世の両方におけるすべての徳や諸事象含ませた読み方もある。預言者にとっての「アルカウサル」とは、物質的な富というよりむしろ、こういったまさにアッラーから光に輝く潤沢であったならば、それに比肩しうるような潤沢に恵まれることは、確かにほぼ不可能と言えそうだ。

しかし、預言者の完全性には及ばなくとも、不完全ながらも人間である以上、そうした潤沢に、まったく縁がないとするのは、自らが人間であることの否定につながる間違いだ。毎日とりあえず健康に安全に生きていられるだけでも実は、とてつもない潤沢を与えられているということなのだと思う。困難や、苦難や、労苦といったものもまた人生の糧であるとするならば、生きている限り潤沢に恵まれていることになる。

良いことも悪いこともアッラーはわれわれにお与えになる。問題は、悪い事柄であったとしても、それもまた潤沢ととらえ、自分にとって善ととらえられるかどうかということに尽きるのだと思う。いろいろなことがある。そう、いろいろなことがある。
しかし、それらはすべて「ハイル(善)」なのだ。「ハイル」に前置詞の「ビ」がついて「ビハイル」と言ったら「ハイルな状態にある」ことを示すことができる。アラビア語の会話でよく問われる「ご機嫌いかがですか」の答えの一つが、この「ビハイル」である。「元気です」ということだ。だがこれを直訳すれば「善によって」ということにほかならず、「いろいろあるけれど、すべては自分にとっての善だと思えています」ということにさえなる。
ところで日本語の「元気」の語に3つの意味があるが、うちの二つが、《名・ダナ》1. 活動のもとになる気力。また、それがあふれている感じであること。「―を出せ」 2. 体の調子がよいこと。「早く―になって下さい」であるとされる。
今まで、「元気」ということについて、深く考えてこなかったけれど、いかなる困難も、自分にとっては「よき」と思えているということは、まさに元気だということ。大谷翔平も愛読しているという中村天風哲学に言う「元気」に近い。それはもう体の調子が良いというレベルの元気ではない。

アラビア語会話で、調子がよくないときには、「ラー・バアサ」(悪くない)という答え方もあるけれど、人生の達人は、常に、ビハイルだということだ。何があっても、「ハイル」として受け止め、あるいは、「ハイル」として流して生きていく。そういえば、私がアラビア語で何度も助けたられた、イーマーン先生の口癖がこれだった。何があっても、「ハイル」って控えめな調子でつぶやいていらっしゃった。
そうですね。とりあえず、すべてを「ハイル」ととらえてみる。なにがあっても自分にとっての「善」なのだ。たとえ、本当に美味しいことに巡り合ったとしても、無理してがっつくことはない。食べられる分だけ食べておく。がっつけばお腹も壊す。

こう考えていくと、要は、受け取る側の問題だ。絶対的な慈悲慈愛の持ち主であるアッラーが与えて下さるものとして捉えることができたのなら、試練も苦難もすべてが「ハイル」。そうアッラーの究極の慈悲慈愛にたどり着くための「ハイル」。究極的で絶対的な慈悲慈愛の存在たるアッラーがすべてを与えて下さっているという組み立てがあればこそすべてが「ハイル」になりうるというもの。

人生相談に訪ねれば、「活動のもとになる気力」の大切は教えてもらえても、ではその気力をいかに生み出すのかについては、必ずしも明確な説明が出てこない。元気がなくなったときにどのように気持ちを立て直すのかと言えば、前向きに、ポジティブに物事を考えようとは言ってくれるけれど、何をどうすれば前向きにあるいはポジティブになれるのかについては、かならずしも説明はない。

しかし、「ハイル」の語をこうやって解してみることによって元気の源や前向きでポジティブな生き方の組み立て方がわかるというもの。たしかにこの節は、ムハンマドに下されてはいるのだけれど、そして預言者ではない人間にムハンマドの完全性を期待できるわけもない。しかし、気づいても見れば、この世の中、アッラーの慈悲慈愛に溢れている。すべては「ハイル」の生き方を知れば、この慈悲慈愛の恩恵を最大限に受け取ることができるというものだ。

 

3.「生きているだけで丸儲け」

 そのことは、「生きているだけで丸儲け」と言い直すこともできそうだ。この言葉は、明石家さんまの座右の銘として引かれることが多いけれど、生きているだけで、もうすでに大きな潤沢に恵まれているということだ[i]。離婚も、信じられない多額の借金も、すべてをハイルと受け止め、沢山の笑いに変えていく。それで人々の心も潤い、元気づけられるというもの。おそらく、「お笑いか自殺か」という選択肢を迫られ、死の淵に立った彼だからこそ、その笑いには、生きることへの圧倒的な肯定があるのだと思う。トークに涙してしまう人がいるくらい、彼の笑いが支持される背景にはそんなことがあるのかもしれない。その意味で、「笑う門には福来る」という言葉も、真理を突いていることになる。

しかしながら、すべての人々が、すべてを「ハイル」で乗り切ることができるとも思えない。クルアーンの注釈等で、「ハイル」とは「財」「富」の意味をも持つとの解説を知ったのであればなおさらだ。そんな潤沢には縁がない、そんな潤沢はどこにあるのかと。
その潤沢に気づけないとき、笑いが必要になる。悩みを、不安を笑い飛ばすための笑い、自分の置かれた状況を、余裕を持って受け入れるための微笑み。誰かを蔑み、排除して、あるいは弱い者いじめや下ネタで笑うことではない。すべてを「ハイル」に変えてくれるような笑い。

笑うのでなければ、祈ってみるのはいかがだろうか。話で笑わせるのでなければ、食べ物で笑顔にするのはどうだろう。ありえない話で人は笑い、過去を笑い飛ばし、未来を切り拓く。それは奇跡を信じること。ありえないことが起きると信じること。そこで「祈り」は欠かせない。

潤沢に気付こう。潤沢だと思って周りを観よう。ムハンマドだけに与えられた事どもが潤沢であったというのであれば、私たちは、まずそうした潤沢の存在に気付こう。与えられたものではない。そしてその潤沢を与えてくださっている主の存在にも。潤沢の主の存在がはっきりすれば、それが祈りや犠牲の向かう先になる。そうすれば、地上の暴君たちにではなく、もっぱら潤沢の主、つまりすべてを創造した存在に、祈ることも犠牲を捧げることもできるというものだ。

 

 [i] ちなみに娘さんのIMALUの名について「名前の『いまる』は父親であるさんまの座右の銘きてるだけでまるもうけ(生きてるだけで丸儲け)」からと[16]、一方大竹は「いまをいき(今を生きる)」から命名したと述べている[17]」。https://ja.wikipedia.org/wiki/IMALU

 



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