見出し画像

なぜ「シャムス(太陽)」? そして、シャムスとそのドゥハーに誓うとは:《クルアーン》「太陽章」第1節をめぐって

シャムスとは

「シャムス」どう訳訳されているだろうか。まずは、『アラジン』。定冠詞を付けて「日、太陽、お日様、日輪 / the sun」と説明される。「日の当たる場所」もこの語がカバーする。

 現代のアラビア語では、次のように解されている

·       لجمع : شُموس
·       الشَّمْسُ : النَّجْمُ الرئيسُ الذي تدور حوله الأرض، وسائر كواكب المجموعة الشمسية
·       الشَّمس: اسم سورة من سور القرآن الكريم، وهي السُّورة رقم 91 في ترتيب المصحف، مكِّيَّة، عدد آياتها خمس عشرة آية

https://www.almaany.com/ar/dict/ar-ar/%D8%B4%D8%A7%D9%85%D8%B3%D9%87

対訳は、
① アッシャムス:地球および太陽系のそのほかの惑星がそのまわりをまわる長たる星。
② アッシャムス:聖典クルアーンの91番目の章の名称。マッカ啓示15節。
となる。

つまり、太陽系を構成する恒星としての太陽であり、また聖典クルアーン第91章の章名でもある。

 それでは、クルアーンの日本語訳を見てみよう。井筒訳、協会訳、中田訳ともに91章の名称は「太陽」である。名称の翻訳については、3者はおおむね一致しているが、たとえば、101章「アル・カーリア」などは、「戸を叩く音」(井筒訳)「恐れ戦く章」(協会訳)「大打撃」(中田訳)という具合にばらばらである。言語を知っていればまだしも、日本語だけを見たらとても元が同じ言葉だとは考えにくい。3者が一致する「太陽」の意味には、一点の曇りもないように思われる。

ここで章名として訳されている「定冠詞付きのシャムス」は、太陽系の太陽のことである。一般的な概念としての太陽。しかし、一般的な概念としての太陽とは何ものか。太陽は、人類誕生の時、いやそれ以前から地球を照らしているだろうが、神と崇められることもしばしばであったあの太陽も、太陽章の名称として、あるいはカサムとして引き合いに出されている太陽も、啓示の時点では、地球の周りをまわっていた。コペルニクスの地動説が観測の結果として唱えられる1000年近くも以前の話である。

当初は、天動説の精密さにとても及ばないその不完全さの故にむしろ嘲笑と排斥の的だった地動説だが、今や、科学的真理としてそれを疑う余地はない。啓示の時のアッシャムスと、いま私たちがその光を浴びている太陽は、話して同じ太陽であろうか。アッシャムスと太陽、そして、天動説下の太陽と地動説下の太陽は、果たして同じものなのか。それに加えてカナファーイーのえがいた『太陽の男たち』[1]の3人の男たちを飲み込んだの給水孔を持つタンクに容赦なく照り付ける太陽も、また太陽である。お日様がいっぱいだ。なるほど複数形も必要である。

「太陽のドゥハー」とは

いかに訳されているだろうか。「ワッシャムシワドゥハーハー」

 「太陽と朝の輝きにかけて、」(井筒訳)

「太陽とその輝きにおいて、」(協会訳)

「太陽とその(朝の)輝きにかけて、」(中田訳)

 一見同じように見えるが、ドゥハーを「朝の」輝きとするかどうかの違いが表れている。つまり、井筒訳では、「朝の輝き」、協会訳では、ただの「輝き」。つまり、協会訳では、太陽が出ている間の輝きと読んでいる。中田訳は、いわば両論併記である。

 「ドゥハー」ご語義については、まさに、それが章名になっている2つ後の第93章での検討を振り返っておくに如くはない。

93章の第1節《ワッドゥハー》の井筒訳は出色であった(僭越ながら)。「明けはなつ朝にかけて、」としていた。他の二つは、「朝の(輝き)において」(協会訳)であり、「朝にかけて」(中田訳)である。この二つは、「アッドゥハー」を「朝」に置き換えた訳であり、翻訳としては、逐語訳的であり、原語に忠実である。章のタイトルは3者とも「朝」であるから、それとの齟齬もない。

そうした中で、井筒訳は、「明けはなつ朝にかけて」とする。朝の太陽の光に対する「明けはなつ」という修飾。逐語訳では現れ出ることのない意訳である。何が井筒先生をしてそうさせたのかは定かではないが、文字のレベルにフォーカスすると、この訳が文字からの翻訳としてかなり的を射ていることが分かる。

「ドゥハー」は、「ダードゥ ض 」と「ハー ح 」と「アリフ ا، ى  」の組合せであるが、アラビア語の「文字学」の教えるところによれば[2]、「ダードゥ」の文字は、「暴露すること」のシンボルであるという。「ハー」が「直感のシンボル」、「アリフ」が人類の祖「アダム」を象徴する文字[3]であることを考え合わせると、「闇を暴いて直感に訴えてくる朝の光に向き合っている人間の姿」が浮かばないでもない。「ダードゥ」というアラビア語に特有な子音が導くこの言葉が表す「ドゥハー」としての朝。人間の意識を目覚めさせる効果さえ期待できるのではないか[4]と思ってしまう。

ちなみに、「ダードゥ ض 」の子音を正しく発音できるアラブ人もまた稀なのだという話を、アレッポの若き精神科医で、私のつたないクルアーンの読みに10年以上に付き合っていただいたムサアブ・クークー博士に聞いたことがある。舌と奥歯の摩擦音が「ダードゥ」の本来だと教えてもらった。私自身は、その発音を常に心がけているが、アラブ人の間でさえこの子音は十分に保たれているとは言えない[5]。となると、ドゥハーとしての朝は絶滅の危機にあるのかもしれない。

その意味は?

圧倒的なインパクトを持ちながらも、かすみがちなのかもしれない、この朝の光。あるいは朝日の輝き。その意味をアッラーズィーの注釈書[5]に尋ねておこう。

至高なる御方の御言葉《太陽とその光にかけて》の光について、注釈学者たちには、3つの見解があるという。

 ①ムジャーヒドとカルビー:「太陽の光」

②カターダ:「それは、日中のすべて」としたが、それは、アルファッラーウとイブン・クタイバの選択でもある。

③ムカーティル:「それは太陽の熱である」とした。これの決定は、言葉の(意味に)による。

 

そうした中で、彼が採用するのは、アッライスの見解である。つまり、「アッダフウ الضخو 」とは昼が上がること。「アッドゥハー」とはそれよりわずか上にあること。「アッドゥハーゥ」は、昼が広がって、正午に近づいていること」。

また、アブー・アルハイサムは言った。「 「ضّح」は影の反対であり、それは地球の表面に当たる太陽の光であり、その起源は「الضّحى」である。彼らは「ハー」のスクーンと「ヤー」がともにあるのを重いと感じ、それを変えて、「ダッフン」と言った。したがって、「الضحى」は太陽の光であり、その輝きである。それから、至高なる御方の御言葉《一夕か一朝にすぎなかった》(引き離すもの章(79章)46節)にもあるように、それが輝く時刻をそう呼ぶようになった。

「إِلَّا عَشِيَّةً أَوْ ضُحَاهَا」 [النازعات: 46]。

  ところで、注釈学者の中には、「「ドゥハーハー」について元の形に則して「ダウウハー」と主張する者がおり、同様にそれは「昼間の全体」とする者もいる」と指摘する。なぜならば、「昼のすべてとは、太陽の輝きからなるからである」。それとは別に、「アッドゥハー」について「それは太陽の熱だ」とする者もいる。太陽の熱とその輝きは不即不離の関係にあり、その熱が強くなれば、その光も強くなり、逆もまた然りだからである。ただし、これは、「もっとも弱い見解」とする。

そして、「至高なる御方は、ただ、太陽とその光を引き合いに出してカサムを行なったのは、それにかかわる便益の多さの故にだ」ということを知っておくべきだとしている。

太陽を追いかける月

至高なる御方の御言葉 وَالْقَمَرِ إِذا تَلاها について、アッラーズィーは月が太陽の後を追う、その現れ方について5つの見解があるする。

 第1の見解:太陽が沈むとき月が昇り続けるというものだ。それは月の前半に起きるに過ぎないことだ。太陽が沈んだとき、月がその光において太陽を追いかける。それは、イブン・アッバースによるアッターの言葉である。

 第2の見解:太陽が沈んだとき、ヒラールの夜に月が太陽を追いかけるというもの。それは、カターダやカルビーの主張である。

 第3の見解:ここに言う「後に従う」とは、月が太陽からその光を受け取るという意味。誰某は、それについて、誰某に従うとはすなわち、彼から取るということ。これは、アルフッラーウの見解である。

 第4の見解: それは、球状で満月になって太陽を追いかけるというもの。それはまるで太陽を光と輝きにおいて追いかけるようなもの。つまり、その光が完全になったとき、光り輝くことにおいて太陽な場所に立つようになるということ。そのことは、月夜に生じる。これはアッザッジャージュの見解。

 第5の見解:月は、感覚(見た目?)による天体の大きさにおいて、そしてこの知者の福利と月の動きとの結びつきにおいて太陽の後を追うというもの。

太陽が沈んで完全になった後に、月がそれを追いかけるという意味である。まるで月が太陽の輝きと光を追いかけているかのようであり、光が完全になると太陽と同じ明るさになるということである。それは夜の明かりと輝きにおいて太陽の立ち位置と同じになるということ。天文学においては、この二つの間には、太陽と他の天体の間にはない関係性の存在が明らかになっている。

  ここで注目しておきたいのが、第5の見解である。第1から第4までの見解が総じて語釈であるのに対し、第5では、天文学の知見を用いて、章句の解説を試みている。地動説こそ知らなかったものの、アッラーズィーの時代、イスラーム世界では、天体についても科学的な探究が盛んにおこなわれていた。それを聖句の解釈に結び付け、新たな解釈を探究する。科学と宗教を対立させないばかりか、むしろ両者を相補的な関係において、アッラーの存在の徴しとその知の探究を行なう。結果として、より包括的な知が創出される。今は昔の話にしてはいけない。

天国と地獄の喩え

 太陽章の冒頭の2節。その注釈のまとめとして、アッラーズィー(1149年-1209年)は、こう述べている。

 「夜において世界の住人は死者のようであるが、しかし、東に夜明けの兆しが現れると、それは生命力を吹き込まれた絵のようになる。死者たちは生き返り、その生は、盛り上がり、力をつけ、完璧に近づこうとすることをやめない。その完全の極限が「アッダフワ」の時である。したがって、この状態は、復活の状況に似ている。ドゥハーの時間は、楽園の徒の安定に似る。」

 そして、前述のように、

 「至高なる御方は、ただ、太陽とその光を引き合いに出してカサムを行なったのは、それにかかわる便益の多さの故にである」

 ということも知っておくべきだとしていた。

 それがおよそ800年前。日本で言えば、鎌倉時代である。鎌倉仏教の諸宗派が誕生していた。それから、約800年が過ぎ、現在比較的新しいはずのサーブーニーの注釈書[6]は同じ個所の注釈に言う。

 「朝が現れ、太陽が昇ると、彼らの生活に生気が戻る。死者たちが生者たちに変わり、彼らの諸活動のために朝の時間に散っていく。この様子は、復活の日の状況に似ている。ドゥハーの時間は、来世の楽園の徒たちの安定に似る。太陽と月は、人間の福利のためにアッラーが創造した二つである。この二つをカサムの引き合いに出すのは、その二つに計り知れない便益があることへの注意の喚起である。」

  ドゥハーの光は届いているか?太陽光と水素エネルギーの時代が到来しつつある今、「太陽」の計り知れない便益を具体的な形で世界の福利の増進のために見出し、生かしていく。まずは、ドゥハーの光、風土的な差異を超えて、受け止めるだけのナフスを持つところからであろうか。

 


脚注

[1] ガッサーン・ カナファーニー「太陽の男たち」(黒田壽郎訳)『ハイファに戻って/太陽の男たち』(G.カナファーニー著 黒田壽朗/奴田原睦明訳)河出文庫(カ3-1)、河出書房新社、2017年)。

[2] ガブリエル・マンデル・ハーン(矢島文夫監修、緑慎也訳)『図説アラビア文字辞典』創元社、2004年。

[3] 「アリフ」「ダール」「ミーム」の組合せは、「アリフのように立ち、ダールのように跪き、ミームのようにひれ伏す」ことが礼拝時の典型的な動作。この3つの並びは アダム。(ハーン『アラビア文字辞典』41頁)。

[3] 「「ダード」には、こもっていたものを突破するような力強さがある。光(ダウ)、圧力(ダブト)、対立・対抗(を示す前置詞)(ディッダ)、必須「ダルーラ」。何れも、心に圧をかけてくるような強さを持つ言葉たちだ。となると、アッドゥハーとしての朝は、雲海から昇ってくる太陽、あるいはその光をイメージできないわけでもない。「輝き」や「あけはなつ」は、かえって、ドゥハーの語感を汲んでいると言えなくもない」。(詳細は別稿に譲りたい)

[4] 私自身の経験を言えば、パルミラでアラビア語教材ビデオの撮影に出演してくれたベドウィンの少年の「ダードゥ」に聞き惚れたことがある。(かれこれ四半世紀ほど前のことになるが)。

[5] イマーム、ファフルッディーン・アッラーズィー『大注釈書』第11巻(ベイルート:ダール・イフヤーイ・アットゥラース・アルアラビー、1997年)。

https://shamela.ws/book/23635/5991

[6] シャイフ、ムハンマド・アリー・アッサーブーニー『サフワッ=タファースィール』ベイルート:シャリカ・アブナーイ・シャリーフ=ル=アンサーリー 、2005年)

タイトル画像

枝年昌 - MAK - Museum of Applied Arts, Vienna (Austria). Three parts: https://sammlung.mak.at/en/collection_online?id=collect-196440, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=139984440による

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?