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「アルガーシヤ」の所在:《クルアーン》「アルガーシヤ章」をめぐって(その2)

未知を問うアラビア語の文体

《アルガーシヤの話があなたに届いたか》(《クルアーン》アルガーシア章1節)。原文では。「ハル・アターカ・ハディース・アルガーシヤ」となっている。この「ハル・アターカ・ハディース・~」という言い方は、聖典クルアーンの中にいくつか散見される。

たとえば、モーゼについて

وَهَلْ أَتَاكَ حَدِيثُ مُوسَىٰ} (٩ طه)}

ここに伝えられている話とは、アッラーのモーゼに対するトワーの聖谷での啓示の開始と導き、ファラオの許へ行けとの命令、そして彼との攻防の一部始終、さらには、出エジプト後の黄金の仔牛に対する偶像崇拝、果ては最後の日の情景に至るまでの物語である。

هَلْ أَتَاكَ حَدِيثُ مُوسَىٰ} (١٥ النازعات)}

こちらのムーサ―の話は、トワーの聖谷、フィルアウンへの懲罰の物語で、上の話の簡略版である。

 

هَلْ أَتَاكَ حَدِيثُ ضَيْفِ إِبْرَاهِيمَ الْمُكْرَمِينَ}(٢٤ الذاريات)}

イブラーヒームの賓客の話。仔牛(を焼いて)もてなすも手を付けない。イブラーヒームと妻の間に、賢い息子が授けられるであろうというアッラーからの吉報を伝えに来た。

هَلْ أَتَاكَ حَدِيثُ الْجُنُودِ} (١٧ البروج)}

《軍勢の話》とは、直後に《フィルアウンとサムードの民の》とある。

هَلْ أَتَاكَ حَدِيثُ الْغَاشِيَةِ} (١ الغاشية)}

そして、本節である。《アルガーシヤの話》。

つまり、この言い方が用いられるときには、モーゼであり、イブラーヒームであり、その軍勢(フィルアウンとサムードの民の)という具合に、届いたかどうかが確認されているのは、既知の事柄についての「話」なのである。もしも、未知の事柄についての説明であるならば、「ワマー・アドラーカ・マー・~」という言い方が選ばれるはずである。

 وَمَا أَدْرَاكَ مَا الْحَاقَّةُ} (٣ الحاقة)}

وَمَا أَدْرَاكَ مَا سَقَرُ} (٢٧ المدثر)}

وَمَا أَدْرَاكَ مَا يَوْمُ الْفَصْلِ} (١٤ المرسلات)}

وَمَا أَدْرَاكَ مَا يَوْمُ الدِّينِ} (١٧ الإنفطار)}

 この言い方では《アルハーッカ》《サカル》《アルファスルの日》《アッディーンの日》について、「それらが何であるのかをあなたに理解させるものは何か …{وَمَا أَدْرَاكَ مَا} 」とムハンマドに問うことによって、それぞれの語句の説明を行う。

しかし、ここでは、「話が届いたか」が用いられている。つまり、「アルガーシヤ」と下されたときに、少なくともアルガーシヤについて、その言葉からそれが何なのかは想起できていることが前提になっていることがわかる。「アルガーシヤ」はもちろん、「圧倒的事態」(協会訳)、「蔽塞」(井筒訳)、「覆い隠すもの」(中田訳)と言われたのなら、外国語たとえば日本語による訳語からのアプローチでは「ハル・アターカ・ハディース・~」から遠ざかってしまうように思う。

なお詳細は…

気を取り直そう。結局、「アルガーシヤ」にまつわる話とはいったい何なのか。それを教えてもらえればいいのだから。アッラーズィーが注釈の中で、ちょっとおもしろいことを言ってくれていた。理性的な把握の限界についてである。曰く

 理性は、反抗者たちの状態が従順な者たちの状態の逆であることを示すにすぎないからである。

アッラーズィー『大注釈書』第11巻138頁

 つまり、アッラーの教えに対する反抗者たちの状態が、来世においてどうなるのかということについて、理性が示してくれるのは、せいぜい従順な信者の逆の状態になるということくらいである。

その詳細をいかに知らせるのかについて、理性にはそこへ至る道がない。

アッラーズィー『大注釈書』第11巻138頁

つまり、理性には、詳細を、あるいは具体的に何が起こるのかを示すことはできないという。たしかに、理性的判断は、因果関係と経験による認識の枠を超えられないかもしれない。そこから逸脱した、奇想天外な出来事、想定外の事柄など、まさに奇跡的な事象については、理性を超えた、心や霊魂といった「感じる力」によって示される。預言者に対する啓示はその最たるものだ。

「ガーシヤ」という言葉を知っていたとしても、おそらく、定冠詞を付されたその言葉が示す世界の内実など、ムハンマドも、あるいは、彼の同胞たちも知るはずがない。《人間たちに、それまで知らなかったことを教える》(凝血章第5節)のがアッラーでもある。その御方が《アルガーシヤの話があなたには届いたか》と2人称に呼びかけ、読み手を引き込むような、しかし、シンプルな疑問文で語りかけているのだ。モーゼの話は、アッラーに従ったことによってこの世で具体的に何が起きたかを示していたし、イブラーヒームについても、現世で何が起こるかの話だった。軍勢については、滅ぼされたことの確認だ。だが、本章は、「アルガーシヤ」に見舞われる人間たちに来世で具体的に何が起こるのかの詳細が示されている。まさに、アッラーのみが知る世界の話、啓示に尋ねるのがもっとも相応しい話である。

ペコペコ、バタバタ、ヘトヘト…

それでは、その日何が起きるのだろうか。[ وجوه يومئذ خاشعة عاملة ناصبة ]

「ウジューフン وجوه  」とは、つまりウジューフンの持ち主のことを指す。ここでは、可哀そうな者たち、不幸な者たち、つまり不信心者たち。つまり彼らは、その日、さすがの彼らもおとなしくしているというのだ。ハーシアは、「卑下する」という意味もあれば、「謙虚である」という意味もある。「アーミラトゥン」とは、文字通りであれば、行為をしているということ、働いているということだが、ここでは、数多くの仕事をするということ。あれもこれも手を出して働き続けている状態。そして、「ナーシブン」とは、疲労にもかかわらず、粘り強く仕事に取り組む、あるいは取り組まざるを得ない状態を指すと解すことができる。

この3つの属性は、両義的である。謙虚あるいは卑屈、努力あるいは無駄働き、疲労に潰されるあるいは疲れてもそれを感じないという具合である。この聖句に言うその日が、いったいいつなのか。アルガーシヤからの流れで言えば、最後の審判に伴う、復活の日のことを指していると読むのが妥当であると思われるが、アッラーズィーのまとめによれば、これらの属性が獲得されるのは、現世なのか来世なのか、すべての属性なのか、一部の属性なのかでそこには3つの見解があるという。

第1が、3つともすべてが来世において獲得されるものという見解。復活の日の不信心者たちの状態である。現世で尊大になりアッラーの下僕としての行為を怠ったため、来世では、火獄で疲労困憊でしかない、鎖と重い首枷を引きずることになる。《更に70腕尺の長さの鎖で彼を巻け》(真実章32)

第2が、3つともすべて現世において獲得されるものという見解。ユダヤ教徒、キリスト教徒、偶像崇拝者、ゾロアスター教徒の僧院の修行者たちのことであり、彼らの勝手な想像による崇敬行為は、アッラーに対するそれにはなりえない。

第3は、3つの属性が現世と来世のいずれかに分かれるというもので、さらに2つの見解に分かれるという。
1つめが、従順さのみが来世で獲得され、残り二つは現世であるという見解である。火獄へ落されればさすがにしおらしくなるということだ。
2つめが、従順さと、仕事の努力が現世で、疲れが来世で獲得されるというものである。この世で疲れ知らずに働いて財を稼いだとしても、彼が悪を行うのであれば、最後の審判には何の役にも立たず、結局来世で苦難を強いられる。《そのとき彼らが思い及ばなかったことが、アッラーから彼らに現わされよう》(ズマル章47)。

グダグダじゃん

「アルガーシヤ章」の1,2節に示された3つの属性、すなわち、従順であり、多動であり、疲労するというのは、最後の審判をへて火獄の徒となった者たちが来世で獲得するものと解するのが、一見妥当であるかのように思われる。しかしながら、アッラーズィーの注釈が示す、その解釈によれば、それらが、もっぱら来世で獲得されるのではなく、全体的にせよ、部分的にせよ、現世においても獲得される可能性が示唆されていた。だからこそ、前述のようにこれらの能動分詞が、両義的に解釈されもするのであろう。

しかしながら、こうした事態が生じる根本には、「ヤウマイディン」(その日)をいかに捉えるのかという問題が横たわっているようにも思う。「その日、顔(の持ち主)は従順である。(もちろん従順といってもその語感が、日本語とアラビア語の間に齟齬があるようで、それはそれで気になる。日本語の従順は素直さと結びつくのだが、アラビア語の従順は恥辱に結びつく。納得して大人しいのか、恥ずかしいから黙っているのかの違いだ)」。「その日」とは、いったいいつなのか、クルアーンの解釈上、それは、「審判の日」のこととなってはいるが、具体的にいつのことなのかについては、その日はその日なのであって、何時幾日が示されてはいない。イスラームの時間観では、一般にその日は、一律にやってきて、現世は強制終了し、一挙に来世へと移行すると考えられる。何時幾日なしで到来だけは確実とし、それを信じられなければ、信仰が足りない、あるいは信者ではないとする。これ自体が、人々の従順さを引き出す装置なのだ。つまり、一日限りの「その日」は、あくまでも仮想的なのではないのか。だが、他方、「その日」はそこかしこにあるようにも思われる。人の数だけあるといってもいいかもしれない。もちろん、究極的なその日ではない。疑似的なその日。中途半端でしかない人間が中途半端に行った結果の中途半端なその日である。だからその日もグダグダに現れる。

食べても、食べても…

自分のことを思いきり棚に上げて言えば、米国の中東介入。民主化を目指していたはずだが、独裁化とテロリズムの先鋭化をもたらし、果ては昨今のイスラエル・パレスチナ戦争だ。彼らがなぜあの日の餌食にならなければいけないのか。それでも殉教者として天国に行ければいいのか?いや、それは、最終手段であろう。中途半端だから、すべては弱者にしわ寄せがいく。PLOの駐日代表が、自身の家族をガザから脱出させるために個人的にクラウドファンディングで資金を集めているという話を聞いた。それほど、危機的状況なのだという理解が一般的ではあろうが、芥川の「蜘蛛の糸」を思わないでもない。その働きは、家族のためであって、イスラエルにとっての創造主でもあるアッラーに対する服従行為とはいえない。それこそ彼の顔は疲労困憊で表情は恥辱に満ちてもいようが、地獄的な現実の中での現世の話だ。

程度の差こそあれ、「働けど働けどわが暮らし楽にならず」(啄木)的状況はあるし、「慈悲深い神も仏もありはしない」と嘆くこともあるだろう。「正直者が馬鹿を見る」など日常だ。目に見える首枷、足枷、鎖の類こそないけれど、目に見えないそれは数限りない。だからこそなおさら目に見える拘束には、服従してしまうのかもしれない。そこに神を見るから。

究極が《燃え盛る業火》であったとするなら、この中途半端な地獄を焼くのは、亡骸を一気にプラズマ化してしまうような高温ではない。じわりじわりと地球全体を温め、火山の噴火や大規模な山火事や頻発する戦争などがさらに温暖化が沸騰化へと加速して、人類全体が「茹でカエル」状態。

究極が《煮えたぎる泉水》であるのなら、中途半端が飲まされるのは、じわりじわりと健康を害する清涼飲料水の類か。

究極が《ダリーア》だとすれば、中途半端は、製糖会社のために食べさせられている世界中に溢れかえるスウィーツか。中毒性のある「ブドウ糖果糖液」なんて添加物もある。気が付けば、貧富の格差を超えて世界中が糖尿病。喉が渇いて仕方がない。地球に優しいといいながら、身体にはめっちゃ厳しい「ソイミート」なんてものもある。

何事にも中途半端では来世の地獄など高根の花。酔っぱらって桶におぼれた「吾輩」を想う。

الَّذِي يَصْلَى النَّارَ الْكُبْرَىٰ ثُمَّ لَا يَمُوتُ فِيهَا وَلَا يَحْيَىٰ} ( سورة الأعلى: 13)}

《かれは巨大な炎の中で焼かれよう。その中で、死にも、生きもしない》(至高者章12,13節)

「アルガーシヤ」の話、確かに届いた。アルハムドゥリッラー。アッラーフ・アアラム。



参考文献

イマーム、ファフルッディーン・アッラーズィー『大注釈書』第11巻(ベイルート:ダール・イフヤーイ・アットゥラース・アルアラビー、1997年)

タイトル画像:

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