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心象言語学は語る:無花果とオリーブ(第6回/全8回)

グーグル翻訳の限界

「ワッティーン・ワッザイトゥーン」で始まる聖典クルアーン「無花果章」の前半はここまで、後半は、例外の接続詞「イッラー」ではじまる。アラビア語の言葉の並びや個々の言葉、つまり、語尾の変化や品詞、あるいはその言葉自体の成り立ちといったものを理解するのがアラビア語の文法理解であると考えると、見落としがちになることがある。否定詞や接続詞などによって引き出される「心象 mental images」である。実はこの「心象」が言語によるコミュニケーションを解剖する際にかなり大きな役割を占めるのではないかと、最近の私は考えるようになってきている。ポストグーグル翻訳あるいは、生成AI時代における多言語教育の柱になるべきものとさえ思える。

たとえば、「アッラー以外に神はない」という言葉。アラビア語では、「ラー・イラーハ・イッラー・アッラー」(実際の発話では、「イッラー」の最後の長母音「アー」がと「アッラー」の「アル」という定冠詞に前置されているため短母音化して「イッラッラー」となる)と4つの言葉の並びからなる。

「アッラー以外に神はない」の心象

「ラー」は否定語。その後ろに限定のかかっていない名詞を目的格で伴って、完全否定を表わす。「イラーハ」を主格で表せば「イラーフ」。「イラーフ」とは、神のことであるから、「イラーフ」はいろいろ、数えきれないほどあるのだとしても、「ラー」に目的格で導かれていることによって、神々の存在は一挙に否定される。心に浮かぶイメージは、神々がいるかもなぁなどと神ってものをそれとなく想起していたそういう世界に、「ラー」が付いた途端に、そこが暗転する。神たるもの何も見えない闇の世界が広がるのだ。それに続くのが「イッラー」である。

「イッラー」は、完全否定に対する例外を示す符号だ。「イッラー」が来たな、ひっくり返るなと思った途端に「ッラー」つまりアッラーが現れる。先ほどの闇は一挙に陽転し、光の中にそれこそ燦然と「アッラー」の語が浮かび上がる。この、闇と光、陰と陽、あるいは、黒と白といった心に浮かぶイメージのコントラストと緊張感そしてその切り替えと共に語られ、綴られるのがアラビア語なのであると言いうる部分がアラビア語にはある。

このことを知ったうえで、もう一度、「ラー・イラーハ・イッラッラー」と言ってみよう。「ラー」の全否定と「イッラー」による切り返し。言葉の背景が闇から光へ切り替わりはしなかったであろうか。日本語の「アッラー以外に神はない」という言葉に、上に示したようなコントラストを感じることができるだろうか。おそらく、そこにあるのは、コントラストではなく、グラデーションのはず。「アッラー以外に神はない」と言った後からでも、それを否定したり、あるいは、ぼかしたり、他人が言っていることにしたりと、結論をいくらでも変えられるのだ。「アッラー以外に神はいる」という文章でさえ、日本語であればどこも間違ってはいない。ただ、アラビア語ではそうはいかない。「イッラー」を使ったのであれば、その後ろに、イッラー以前の言説の例外的事柄、いや、むしろその文章全体の主題が現れるからだ。

明日を信じる

第6節に戻ろう。「いちばん低いものへ人々を戻された」をうけて《但し、信仰し、善行をなした者たちは別で、彼らには途切れることのない報奨がある》と切り返してくる。

現代の注釈を聞いておこう。それによれば、「信仰と正しい行いを合わせて行う、敬虔な信者たちを除いて。」とし、後段については、「彼らには、途切れることのない永遠の報奨がある。それは敬虔な者たちの館。天の楽園」と注釈していた。(サーブーニー『サフワッタファーシール』)

私がこの頃しばしば参照するイスラーム文明隆盛なりしころの注釈者の一人は、もっと現実的に、「もっとも低いもの」を老衰、老齢とし、それに戻されると解していたため、この例外規定も、老齢者たちの中で善行を行なった者たちには、「彼らのアッラーに対する服従と忍耐に対して、アッラーが彼らに与えた老年期や老衰という試練に対して、苦難の苦しみとアッラーへの務めの実行に対して、起床や起立の疲れに対して、恒久的な報奨がある」としている。(アッラーズィー『アッタフシールッカビール』)

これらの見解に共通しているのは、報奨なり報酬なりを与えられるのが、この世ではないということである。信仰と善行の見返りは来世でということ。前節の、「アスファラ・サーフィリーン」をあたかも「奈落の底」としているかの解釈である。

今、ここを生きる

イスラームの信仰の対象の中には、確かに来世が含まれていた。それが信じられないのであれば、同じ信者たちから、信仰心が足りないと責められたかもしれない。しかし、天国へ行けば何でも手に入るという約束は、空手形に等しくないであろうか。もしも、信仰が国家に対するもので、善行が、国家のための戦争であったとするなら、来世で支払われるからという空手形を盾に、人々に戦争への参加を義務付けることにはならないであろうか。あるいは、政治的、あるいは宗教的な独裁者が、神の正義の名で人々を戦争に駆り立てたとき、それは、来世や死を美化して現実と現に生きる人々を神の名で否定することにつながるのだ。

たしかに「途切れることのない報奨」を現世で獲得するのは難しい。しかし、だからといって、この報奨は来世におけるそれのみを指すとするとの読み方も、極端である。「アッドゥンヤー」のいちばん低い人々の間に戻されたと直立二足歩行の「人間」についてのメッセージとして、そして、戻される先が老衰時や老齢期でも、ましてや地獄の奈落でもなく、この世であるとするならば、第6節に降された「イッラー」以下の例外を読んだとき、そこで言及されている報奨は、来世でのそれに限られないことになる。

もしも、この聖句が老齢期の信者たちにのみ向けられたものであるならば、現世からの死が明らかに迫ってくる中で、来世では途切れることのない報奨に与れるというのは、逝く者にも、遺される者にも、これほど心強いことはなかろう。しかし、審判をへて来世ではそうなるとしても、信者であるなしにかかわらず、現世で今を生きている人々にどれほど響くのかと言えば、残念ながら、多くを期待できないのではないか。アッラーはすべてを御存知。

加筆修正版

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