見出し画像

多様性、そう、愛すべき②:《クルアーン》「夜章」をめぐって(後段)

「アルホスナー」とは

「あなたがたのサアユは実にシャッター」であるという聖句に続くのが、次の聖句である

{فأما من أعطى واتقى، وصدق بالحسنى، فسنيسره لليسرى}
《それで施しをなし、主を恐れる者、また至善(アルホスナー)を実証する者には、われらは至福(アルユスラー)への道を容易にしよう》 

《聖典クルアーン》夜章5,6,7節

「アルホスナー」を文法的に解説すれば、形容詞「ハサン」の卓越詞(比較級・最上級)、アフサンの女性形に、定冠詞が付されているもの。アラジンによれば、「最良の結末、善果、あるいは有効な態度」とあるが、最良とされるものが女性形であった場合にもこの形をとることにはなる。

 ここでもアッラーズィーの注釈を見ておこう。彼は、「アルホスナー」には4つの面(あるいは相)があるとしている。

①「アッラー以外に神はない」という言葉つまり、タウヒードと預言者性である。文法的なアプローチからは結び付かない面が最初にあげられている。しかし、ムスリムが、信じるべき真実として最初にあげるものは何かと考えれば、納得ができる。

②アッラーの奴隷として身体的、あるいは金銭的な義務が課されること。シャリーアが定める正義を真実として信じるとまとめることができる。これらの2つは、しかしながら、「善果」というより、「善果」の基とも言うべきものであろう。アルホスナーは、イスラームの教えのそうした相をも含意している。

③実際にアッラーの道のために財を費やしたことに対する酬い。見返りの追加分のことを「アルホスナー」と呼ぶ。現世におけるものと、来世におけるものとの両方があるはずと解したい。

④ジャンナ(来世の楽園)のこと。現世での行ない全体に対する褒賞である。謝礼の追加分を「アルホスナー」と呼ぶ。至高なる御方は、《善行を稼いだ者に、われらは善を増やす》(相談章23節)、また《実に私には彼の許で、より良き報奨がある》(フッスィラ章50節)とも言う。。

 このように、「ラー・イラーハ・イッラッラー」から「ジャンナ」まで、「アルホスナー」、つまり、最上級の善は、ムスリムの信仰の核とも言える諸概念である。奴隷の解放や、アッラーの道のために私財を費やし、敬虔で、そして、この「アルホスナー」を真実であるとする者たち。彼らが、楽に獲得できるようになる(夜章7節)のが「ユスラー」である。 

「アルユスラー」と「アルウスラー」

聖典はさらに次のように続く。

{وأما من بخل واستغنى، وكذب بالحسنى، فسنشسره للعسرى}
《だが強欲で、うぬぼれている者、至善(アルホスナー)を拒否する者には、われらは苦難(アルウスラー)への道を容易にするであろう。》

《聖典クルアーン》夜章 8,9,10節

前節を含めて「アルホスナー」との関係を整理すると、「アルホスナー」を真実とする者は、「アルユスラー」の獲得が容易になり、拒否すれば、「アルウスラー」へに道に流されていくことになる。そこで、両者を対比しながら見ていこう。

「アルユスラー」は「容易な」を意味する形容詞「ヤシール」の卓越詞「アイサル」の女性形である。女性形に限って、「容易、安易、平易、安楽、富裕、富貴」の意味がある。ここでは、定冠詞が付されていて最上級の意味合いになっている。

「アルウスル」は、「困難な」という意味の形容詞の卓越詞「アアサル」(より難しい、より困難な)の女性形に当たり、この語にも定冠詞が付されている。

アッラーズィーは、アルユスラーにかんし、4つの面があるとしている。アルウスラーの語義も交えて注釈を付している。

 ①アルユスラーは、ジャンナ、すなわち来世の楽園のこと。
 ②アルユスラーは、善、アルウスラーは、多神信仰。
 ③アルユスラーは、信者として課されている作為あるいは不作為(放棄)が楽に行えるということ。アルウスラーは、そうした作為、不作為が厳しく搾り上げられたような状況で行なえないこと。
 ④アルユスラーは、当初もたらされた服従に戻ること。たとえば、アッラーの道のために施しを行うのを容易にすること。服従に戻ることが安楽なのである。アルウスラーは、その逆であり、いとも簡単に、彼をケチに戻し、財産の諸権利の実施の躊躇に戻すことなのである。

 このように、「アルユスラー」は、来世の楽園から、タウヒード的な信仰、信者としての務めが楽に行えること、また、一たん失ったとしても、アッラーに対する服従を回復できること。といった意味を持つ。

これに対し、「アルウスラー」は、アルユスラーの反対概念と言える。したがって、復活後の火獄、多神信仰、信者としての務めの実施が厳しくて行えないこと、アッラーに対する服従を回復できないことと、まとめられそうだ。

 なお、アッラーズィーは、この二つには語義の外にも様々な問題があると指摘する。
まず、この二つの言葉ともに女性形になっている理由について、ユスラー(もっとも易しい)に修飾されているはずの語を考えてみる。一つは、行為の複数形。「もっとも楽ないくつかの行為にした」。それに付随して、然るべき行為を取り戻すのを楽にした」という可能性もある。それは、回帰、回復に当たる「アウダ」が女性名詞であることによる女性形。それらとは別に、方法や道を表わす「タリーカ」という女性名詞が修飾されているという読み方もある。
さらに、ジャンナ(女性名詞)の言い換えとしてのユスラー(よって、女性形)という読み方も考えれる。

 安楽と困苦を容易くするとは? 

「アルユスラー」を来世の楽園と解する者たちもいる。彼らは「安楽を容易にすることを、至高なるアッラーが彼らを容易さと敬意をもって来世の楽園に入れることと解する」のである。

その聖典上の根拠として、《あなたがたは善良だったのだから、そこに永遠に入りなさい》(ズマル章73節)、《あなたがたの上に平安あれ。あなたがたが忍耐したからこその言葉。何と良き来世の住処という結末であろうか》(雷電章24節)などが挙げられる。

これに対して、「アルユスラー」を現世での善行と解する者たちは、

「容易さは善行に向けられる。負担感に襲われず、偽善者や偽信者たちに憑りつく怠惰をも望まない者である。至高なるアッラーは言う。《それは本当に難しいこと、アッラーを真に畏れる者たち以外には》(雌牛章45節)、《彼らが礼拝に立つとき、怠惰に立つ》(婦人章142節)、《あなたたちに何があったのだ。アッラーの道において出生せよと言われたとき、大地に根を生やしてしまうとは》(悔悟章38節)。「容易にすること」とは、「活性化であり、激励」なのである」としている。

 さらに、至高なる御方の御言葉『ファサヌヤッシルフ』の中に、「スィーン」が入れられていることについても、3つの面があるとしている。

 その1:それは親切さや優しさを示すものである。それは至高なるアッラーからであるから、《あなたがたの主に仕えなさい》から《おそらくあなたがたは敬虔になるであろう》(雌牛章21節)が示すように、断定的で確実である。

その2:従順な者が、反抗者に変わってしまうかもしれない。悔悟によって、従順な者になるかもしれない。このため変化もまた可能なのである。

その3:報償が、来世においてより大きくされるとしても、彼が生きている間にはそのことは起きず、アッラー以外に誰もそれを止めることもできない。紛れもなく弛みの余地がある。「スィーン」が入れられているのは、その約束がその時点で、果されるものというのではなく、来世まで含めて果されるものであるということを示す弛緩の文字であるためなのである。アッラーはすべてを御存知

夜章の3つのカサム

「インナ・サアヤクム・ラ・シャッター」の読みについて、アッラーズィーの注釈書を中心にその意味を見極めようと、歩くような速さでサアヤしてみた。

前述のように、アルホスナーの意味の捉え方が、信仰の基礎から、来世での住処にまで及ぶのであるから、信者からすれば、サアユは明確な志を持った着実な努力であることが望ましいのかもしれない。

ユスラーの意味にしても、ウスラーの意味にしても、あるいは、それを容易にするとはどういうことなのかについても、信者からすれば、ウスラーに流されないよう、ユスラーへの道を選択することであろう。何しろ、ユスラーの容易化への道は、しばしばウスラーの見た目をしていて、しばしば人に勘違いさせるかもしれないのだ。

「インナマァルウスリユスラー」というような状況の中で、しかも、アアターにせよタカーにせよ、バヒラにせよイスタグナーにせよ、まさに人それぞれである。どれ一つとして、完全にできるものなどない。

天国に行く人と地獄に落とされる人。現世的に言えば、信者と不信心者。あるいは敵と味方。一見すると人間を善人と悪人の2つに分けて対立をあおるようにしか読めない、夜章のここまでかもしれない。しかし、たとえ、死後の永遠の住処さえもが天国か地獄かに分けられるかに理解したとしても、すぐに必ずそうなるなどとは言っていなかった。

「そうなりやすくするであろう」というにとどまっていたのだ。人間はせっかちですぐに結果を求めてしまう。人の一生など、舞い上がっては灰になって砕けゆく火の粉のようなものかもしれない。だから結果が欲しいのだろうけれど、いやそれでも、結果を焦ってはいけない。アッラーでさえ、未完了形、未来形で語っている事柄なのだから。

夜章の、ほんの10節の検討ではあったけれど、その解釈がすでに「シャッター」であった。私たちのサアユもまたは、天国と地獄ほど離れたスパンの中で、実は、愛すべき多様性ということなのだろう。明けない夜も、暮れない昼もない。アッラーフ・アアラム。

参考文献

イマーム、ファフルッディーン・アッラーズィー『大注釈書』第11巻(ベイルート:ダール・イフヤーイ・アットゥラース・アルアラビー、1997年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?